たとえば、君に ――

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  01. 最後の決断  

 舞台練習最終日の通し稽古に顔出しには来るようにと監督から連絡があって、私はそれまでの日にちを別荘への引っ越しにあてることにした。立地条件もよく、設備もセキュリティも含めて整っているマンションの部屋はスムーズに売却することができた。残っていた大きな家具を運んでもらって、別荘にもある家電はリサイクルに回す。転居届けなどの書類関係も提出し終わって、別荘に移動し、とりあえず生活に支障がないくらい片づけをするまでに一週間をかけた。
 一段楽した頃、監督の奥さんが美味しいと評判のケーキをお土産に別荘 ―― 今は自宅になった処に遊びにきてくれた。私は珈琲が飲めない彼女に紅茶を注いでケーキと一緒にテーブルに置く。
 「チーズケーキもいいんだけど、ここのミルクレープは一度食べたら病み付きよ。生地のふわふわ感とさっぱりした甘味がおススメなの」
 そう言って楽しそうにケーキにフォークを入れる。私も早速一口大に切って口に入れた。挟みこまれてるクリームと新鮮なフルーツの甘味が口の中に広がって、美味しいっと叫ばずにはいられなかった。暫くは近況を報告しあって、だけど彼女はふと押し黙り最後の一口を食べてしまうとフォークを置いてやがて意を決した顔で話しだした。
 「……悦さん。今度の舞台が終わったら離婚届けを出すそうよ。奥さんも了承済みって言ってたらしいわ」
 なんとなく ―― 本当になんとなくだけどそんな予感はしていた。私は溢れてきそうになる感情を珈琲と一緒に流し込んだ。甘味は消え去って、熱が通り過ぎていく。
 「高見さんが嘆いてたの。今から事務所はその対応にてんてこ舞いだって」
 その様子が思い浮かんでしまって他人事のように笑ってしまった。奥さんも楽しそうに笑う。マネージャという職業のせいか、それとも高見さんという人柄のせいか、困っている姿が成人過ぎた男性であるにも関わらず、可愛らしくて、似合ってしまう。事務所でも相当のいじられキャラだと聞いている。
 「監督は?」
 「あの人? 変わらないわよ。今更そんなことがスキャンダルになるかよって。結局悦さんを1番認めてるのはうちの人なのよね」
 肩を竦めておどけたように言いながら、その目は仕方ないわね、と愛情に満ちている。素直にそう表現できる彼女をうらやましいと思い、私は切ない感情が胸に詰まってしまう。紅茶が入っているカップの縁を意味もなく触りながら、ずっと心に溜めていたものを吐き出すために思い切って口を開いた。
 「監督と一緒になって幸せですか?」
 有り触れた質問だとは思う。有り触れていて、何年も二人を見てきた事実からするとすごくバカバカしくて、今更なこと。だけど私にはイマ必要で切実に聞きたいことだった。奥さんは呆れることもなく、じっとまっすぐ見つめてきた。真剣で、何もかもを包み込んでくれそうな光りを宿しながら。
 「千尋ちゃん。ねぇ、千尋ちゃんは幸せが何かわからないって言ってたわね」
 私がゆっくりと頷くと、優しい微笑みが返ってきた。
 「それは私にもわからないわ。だけど、あの人を愛することができる私はやっぱり幸せなんだって思うの。いいことばっかりじゃないけど、私の究極の幸せわね。どんなりゅうき君でも愛することができるって実感できる瞬間にあるの。その瞬間に、私って幸せなんだわって浸れるのよ」
 その瞬間の気持ちを思い出したかのように、ふふっと嬉しそうに笑う。甘やかに惚気る言葉はスッと胸の中に落ちてきた。それはやっぱり、お祖母さんのあの言葉に繋がっているような気がする。愛されるより、愛しなさいと言ったあの言葉。少しずつではあったけれど、複雑に絡め取られていた感情がゆっくりとほどけていくような感じがする。
 「今度の舞台で橘和紀くんに会えるのが楽しみになってきたな」
 不意にからかうように言う奥さんに怪訝な顔を向けると、悪戯っぽくその目が煌いた。
 「だって、悦さんと千尋ちゃんを取り合おうとする新人俳優でしょう。勇気ある有望株じゃないの」
 期待に満ちた瞳を向けられて、苦笑いを浮かべるしかない。本当に、監督はどんなふうに私たちのことを喋っているのか疑問に思った。今更ではあるけど、面白がっているに違いない。それでも迷惑をかけていることを思えば、文句一つ言えないけれど。
 「ねぇ、千尋ちゃん」
 真剣な口調を取り戻して、呼びかけられた。再び、まっすぐな目が向けられていて、思わずじっと見返す。
 「新しい関係を築くことを怖がっていたら、同じことを繰り返すだけよ」
 それだけは、心の片隅に止めておいてね、と穏やかな口調で告げられて、私は言葉に詰まった。和紀を選ぶにしても。えっちゃんを選ぶにしても。前に踏み出さないと、同じところで燻ってしまうだけ。覚悟はもうきっと、できている。だから私はただ、そうですねと頷いて、聴こえてくる波の音に耳を澄ませた。


 痩せているわけでも、暗い顔をしてるわけでもなく、逆にもっとスタイルは洗練されて、最初に会った頃より生命に満ち溢れているように見えた。華やかだった存在がより一層際立ってその仕草一つ一つに惹きつけられてしまう。
 彼女はまっすぐとした姿勢で椅子に座ると、随分と久しぶりね、と苦い笑みを浮かべた。そんな表情さえ、女性の私から見ても嫌味一つなくとてもキレイだと思う。

 「まさか、連絡があるなんて思ってもいなかったわ」
 呆れた表情を浮かべていても口調には面白がる響きがあるように聞こえた。私もにっこりと微笑んで、忙しいのにごめんなさい、とまずは謝罪する。彼女は面倒そうに首を振って、だけど、と腕に嵌めている時計を確認しながら言った。
 「次の仕事があるから用件を手っ取り早く済ませてくれるとありがたいわね」
 私は頷いて、早速本題を切り出した。
 「離婚するって聞きました。私がはっきり言わないとそうしないって言ってたから驚いて……」
 「そうね。そのつもりだったんだけど、悦さんがね。争うなら同じ立場でいたいから、決着をつけておきたいって譲らなかったのよ。あんな情熱的な部分があったなんて、知らなかったわ」
 悔しさが滲んだ口調で言った彼女は、不満そうに髪をかきあげた。ちらりと寄こされた視線が、あなたは知ってたの、という含みが込められている気がして、私は頷いた。
 「私も知ったのは、最近ですけど……」
 「優しくて穏やかなだけだと思ってたわ。だから、お互い利益の為だけに結婚できたのに。あんな部分があったってもっと早く知ってたら、私はきっと、あなたに譲ったりはしなかったわね」
 もっとも、そんなところを欠片も私に見せてくれなかったから、脈なんてなかったんだろうけど、とため息混じりに呟いて、彼女は目の前の珈琲を一気に流し込んだ。砂糖もミルクも入っていないそれが苦かったのか、眉を顰める。
 「やっぱり、本当は彼を愛しているんですか?」
 思い切ってそう訊ねると、呆れたような視線を向けられた。
 「私にあのときの返事を言いにきたんじゃないの? 悦さんを愛してる。幸せにしますって」
 私が黙ってテーブルの上の珈琲へ視線を移すと、彼女が苦笑する声が聞こえた。それが少し、自嘲が混ざっているようで。
 「……私、実は愛してる人がいるの。だけど、その人とは絶対に結ばれることはないわ。悦さんはその恋愛に苦しんでいる私を放っておけなくて、逃げ場所をくれたのよ」
 ハッ、と顔をあげると、彼女は寂しげに影を落としてどこか遠くを見るような眼差しを向けていた。
 「お互いの幸せを見つけたら、離婚するって条件で。誓約書まで存在するくらいよ。そうね、そう言ってみると、悦さんは用意周到ね」
 彼女は肩を竦めて、それ以上は話したくないとばかりに会話を打ち切った。私は、意外な事実を打ち明けられて、胸がうるさいくらいに高鳴るのを感じていた。テーブルの下で握り締めた手の平がじわりと汗ばんでくる。
 「あなたは幸せを見つけたんですか?」
 そうね、と考えるように、彼女はおもむろにテーブルに肘を突いて手の平に頬を乗せた。そうね、と考え込んでしまう。そうして、ぽつりと話し出した。
 「結ばれることがなくても、私はあの人を愛してるの。だから、きっと幸せなのね。幸せなんだわ。少なくとも、後腐れなく悦さんの手を離せるくらいにはね」
 愛してる、とそう告げる彼女の顔はやっぱりキレイで。私は思わず見惚れてしまう。そう素直に言えるところは、監督の奥さんと同じで、美しく ―― 意志の強さが輝いて見えた。
 「それで。結局、あなたは私に何を言いにきたのかしら?」
 きっぱりと問いかけられる言葉に、私はまっすぐ見つめ返した。
 ずっと、迷って、悩んで。いろんな感情に縛られて見えなくなっていた、答え。和紀に出会って、惹かれて、ちゃんとえっちゃんとのことを向き合うことに決めて、ようやく見つけ出すことができたような気がする。だけど、見つけ出したときには、私はその答えがずっと心の奥にあったように思えた。ただ、いろんなことが隠してしまっていただけで。それでも、ようやく手に入れることができた、私の答えは。逸らすことなく、私はまっすぐ彼女を見つめて口を開いた。
 「私は ――― 」
 前に進むと決めたから。

 最後の舞台練習の日、私は二階フロアの端にある自動販売機が置いてある場所で、ソファに座って向かい側に見下ろせる景色を眺めながら、待っていた。休憩時間に入って少し時間が経ったから、そろそろ姿を見せるはず。そう思った瞬間に、「ちひろ」と優しく名前を呼ばれた。振り向いて視線を上げる。少しだけ疲労が見えるけど、それが一層影を作って素敵にさえ見えるえっちゃんが、いつもの余裕を欠片も失って、思いつめた表情で立っていた。ゆっくりとした動作で、隣に座る。ソファが彼の重みの分だけ傾いて、私は胸がどくんっとはねるのを感じた。今更、緊張が高まっていく。

 お互い黙り込んだまま正面を見ていたけど、休憩時間はすぐに終わってしまう。今告げなかったら、私はせっかくの気持ちをまた置き去りしにしてしまうような気がして、一度唇を舐めて湿らせてから、思い切って口を開いた。

 「……あのね、えっちゃん」
 だけど、それを遮るような勢いで急に大きな手につかまれた。
 「えっちゃん?!」
 驚いて顔をあげると、彼は目を閉じていた。いつも隣にいるときと違う。これは、演技をしているときの雰囲気。真剣で、切れそうなくらい張り詰めた空気が漂う。
 「想像して」
 真剣な声が二人しかいない廊下に響きわたる。私は戸惑いながら、雰囲気に飲まれるように頷いていた。
 「俺達はイマ、車に乗って海に向かってドライブにくりだしてる」
 「いつものように?」
 そう、と頷く代わりにえっちゃんはぎゅっと繋いだ手に力をこめた。少し痛いくらいの強さに心がふるえた気がした。
 「おまえがこの手を放したら俺は車を海に飛び込ませる」
 告げられた言葉に、ぎょっと身体が強張った。立ち上がろうとして、繋いだ手に気付く。さっきまでの強さはなくて、包みこまれているだけになっていた。
 「えっちゃん……」
 溢れてくる想いが胸を詰まらせる。
 見つめてくる瞳はいつもの優しさも穏やかもなくて。時々みせる、欲情とか嫉妬とかの火が宿っていたならいつものように誤魔化して、聞かないふりもできる。でも、まっすぐに向けられた目はまるで、縋るように切実で、出会ってから一度も見たことがない。

 苦しいのか、嬉しいのか、悲しいのかわからなかった。

 ただ、わからないまま、胸の中に浮かんだ笑顔にゴメンねと謝っていた。謝って、包まれていた大きな手をぎゅっと握った。

 私にはこの手を放すことなんてできない。

 彼をひとりで飛び込ませることは、できない。

 泣きそうになった。だけど、繋がれた手を選んだ今は、それは卑怯だと感じた。これ以上卑怯者にはなりたくなかった。

 『私はえっちゃんを ―― 高幡悦を愛しています。幸せにします』

 あのとき私は彼女に頭を下げて、きっぱりと言った。

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