たとえば、君に ――
02. 最後の決断
はっきり言ってまだ、自信はない。だけど、どんなに振り返ってみても、今まで、そうして今も、私はやっぱりえっちゃんを愛してる。怖いけど、いつか別れるという限りある時間じゃなくなるけど、新しい絆を作っていこうと思った。きっと、あの大きく温かな手を繋ぎながらだったら、私は歩いて行くことができるし、その中で幸せを見つけていける。ううん、きっと。えっちゃんと一緒にいられることを幸せだと、付き合い始めたあの頃以上に感じることができるようになると思う。それは和紀が教えてくれた。和紀と一緒にいた私は確かに幸せだった。幸せだったけど、愛してはいなかったんだと思う。惹かれてはいたし、好きだとは思うけど、それはまるで、私にとってコロッケの存在と同じ。傍にいると、温かくて幸せをくれて、大好きだけど、それは愛じゃないんだと、お祖母さんや監督の奥さん、えっちゃんの奥さんを見て思った。私は和紀を愛してるとは口にできないし、それに偽りを感じる。だから、あんなふうにキレイな顔でまっすぐに告げることはきっと、できない。そう感じた瞬間に、私が愛してるのはえっちゃんなんだと自覚した。ずっと、求めていたのはえっちゃんだったと。だけど、和紀がいなかったら、私はそれに気づくことができずに、やっぱりまだ、怖がっていて、本当にえっちゃんと別れていたかもしれない。永遠に逃げ続けて ―― 。
「千尋さんっ」
海を眺めていると、そう呼ぶ声が聞こえて振り向いた。後ろからバイクを止めた和紀が手を振って駆け寄ってくる。私はその姿に目を細めた。蹲っていた私に手を差し伸べてくれた和紀の存在は私にとって眩しいほどの、ひかり。
和紀はお待たせしましたっ、と笑うと、隣に並んで、今日も穏やかな引き寄せを繰り返す波に視線を向けた。私も同じように再び海に視線を向けた。
「舞台が無事に終わってよかった」
「うん。絶賛されてよかったね。これで和紀もどしどしお仕事くるかな」
私がからかうように言うと、和紀はいつもの笑顔を浮かべることなく真剣な顔つきのまま「そうなるといいね」と答えた。
その横顔に眉を顰めずにはいられなかった。いつもの和紀なら、得意げに笑ってくれるのに。舞台は無事に終了し、和紀の演技力も認められた。えっちゃんは脇役であっても、絶賛だったけれど。そうして、今までの流監督の舞台の中で最も好評と、業界内でも話題になり、沢山のお客さんたちが押し寄せてきて、どんなに人気があっても伸ばさない監督が、珍しく三日だけ公演を追加したくらいだった。先日まで目まぐるしいスケジュールで、ようやく終わった今は私もいくつかの仕事はあったけど一段落ついたところだったし、和紀はお昼までオフをもらったと教えてくれたから、舞台中は喋ることができなかったけど、改めてふたりで連絡を取り合った。えっちゃんは、再び海外に仕事で旅立っていった。電話で和紀に会うことを話したら、不機嫌にはなったけど、それは高見さんにでも八つ当たりしてもらうしかない。
「オレ、千尋さんに会えてよかった。役者の面白さがわかってきたよ」
歌も勿論好きだけどさ、と付け足す和紀に、苦笑するしかない。それでも。うん、とうなずいて、私は言った。
「和紀はいい役者さんになるよ」
知ってる、と笑う和紀は自信に満ち溢れていた。自信のある顔だけどそれが無邪気にさえ見える。大好きな笑顔。
ぐっと胸に刻みつける。波打ち際に立つ和紀の隣に並んで、海を見つめた。この海の広さも煌めきも波の音も。全部が私にとっては和紀だった。迷って、身動きが取れなかった私を優しく包み込んで、励ましてくれた。この場所で、ずっと。
「千尋さん?」
不思議そうに黙りこんだ私に問いかけてくる声は、優しい。その優しい声の持ち主にこう言ってしまう。
「私は君の傍にはいられません」
脚本に出てくる、ヒロインの台詞。本当は主役の和紀じゃなくて、違う人に向かって言う言葉だけど。和紀はすぐに気付いて、苦笑いを浮かべた。
「君とともに過ごせた日々は私にとって海の煌めきのように一瞬で。手をのばしても消えてしまう、幻でした。たとえば、君と見る未来があったかもしれない。だけど、私は気づいたんです。愛している人が他にいることを」
海からそっと、視線を動かした。
見つめてくる和紀の目は優しい。彼と過ごしてきた時間が、寄せてくる波に運ばれてくる。出会ってからずっと、私は。
「私は……あなたを忘れない。出会うことができて、幸せだと言える、あなたが」
私は、あなたが。
「大好きです」
傷つけてごめんね。傍にいてあげられなくてごめんね。たくさんの想いが溢れてくるけど、言葉にはできなかった。口にしてしまうと、もっと傷つけてしまうような気がするから。卑怯な気がするから。だから、ただ大好きだと伝えたかった。
まっすぐ見つめると、和紀はすべてを包み込んでくれる顔で優しく笑ってくれた。
「オレは大丈夫だよ。千尋さんに会えていろんなことを教えてもらったから。出会えてよかったっ」
そう言って和紀は砂をおもいっきり蹴り上げた。
「コロッケが寂しがるだろうなー……」
「それって、コロッケのために私を好きだって言ったみたいよ」
和紀は肩を竦めて、笑った。
「知らなかった?」
もうっ、と拗ねて声を上げると、和紀は深いため息をついた。その横顔が寂しげに見えて、切なさで胸が詰まる。何も言い返すことができずに黙り込むと、和紀は決意した声できっぱりと言った。
「オレ……。もう、ここには来ないよ。散歩コース変えると思う」
私は和紀の横顔から視線を外して海を見た。眩しいくらいの煌きが水面を揺らめかせている。何も言えずに、ただ首を縦に振った。その気配を感じたのか、それとも返事がなくても構わなかったのか、和紀は促すように言う。
「千尋さん、行って」
「和紀……」
「もう振り返っちゃダメだよ。前に進んで、幸せになれよ」
行って、と繰り返して言われて、私は最後にもう一度、和紀の横顔をじっと見つめる。まっすぐ海を見て、前を見ている和紀の姿を胸の中に刻み込んで、踵を返した。
しゃりっ、しゃりと踏みしめるたびに鳴って、後ろから聞こえてくる波音がそのすべてを優しく包み込んでくれる。だけど、涙は零れなかった。ただ温かい気持ちのまま、私はもうこの海の側で泣くことはないと感じていた。きっと、もう ―― 。
◆
二人で食べた夕食の後片付けをしてリビングに戻ると、椅子に座って寛いだ顔で今度出演するという新しいドラマの台本を捲っているえっちゃんを見つけた。目は真剣に文字を追っている。私は近寄って、えっちゃんの前に珈琲が入ったカップを置いた。
「ありがとう」
顔をあげて嬉しそうに笑う姿をじっと見つめていると、なに、と優しく促された。私も自分のカップをテーブルに置いて、向かい側に座る。座って、まっすぐ彼を見つめた。
「愛しています」
えっちゃんの顔が驚きに染まって、凝視される。私はそれに構わず、もう一度心を込めて、口にした。
「私はえっちゃん ―― 高幡悦を愛しています」
言葉にすると、どうして長い間ずっと、この気持ちに素直になることを躊躇っていたのか不思議にさえ思えてきた。そうして、お祖母さんが教えてくれた言葉の意味がようやく胸の中に広がっていくのを感じた。心から愛していると告げた瞬間、そう言えることがとても幸せなんだと気づいたから。ゆっくりと温かい気持ちが包み込んでくれる。
「……伝えておきたかったの」
あまりに何も言わないまま固まって、じっと見つめてくるえっちゃんの視線に恥ずかしくなって付け足すようにそう言うと、テーブルの上に乗せていた手をぎゅっと握られた。大好きな、大きな手に包み込まれて、鼓動が早くなる。
「俺も、ちひろを。相模千尋を愛しているよ」
幸せそうに微笑みを浮かべてくれるえっちゃんの目に、やっぱり嬉しそうに笑う私の顔があって、涙が伝っていることに気づいた。
「俺と一緒に幸せな未来を築いていってくれる?」
頬を伝っている涙をそっと、手の甲で拭ってくれたえっちゃんは珍しく、ドラマや舞台中さえ見たことがないくらい緊張した顔つきで訊いてきた。ぐっと握られている手からも、緊張感が伝わってくる。私は自然と頬が緩んでいくのを感じながら、ゆっくりと頷いた。
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