風に聴くセレナーデ

モクジ/モドル/ススム

 01. 出会い 

 メダルをかけられる瞬間は何度繰り返してもやっぱり嬉しい。皆が遊んでいるときも、休んでいるときも、練習を続けて常日頃からピアノに向かっていることが報われているんだから。もちろん、ピアノが好きだってことを大前提で。
「音無(おとなし)さん。最優秀賞おめでとうございます」
 賞賛の言葉と一緒に金色に輝くメダルを首にかけられる。またひとつ、頑張ったね。そう褒められているみたいで、私はにっこり笑った。ありがとうございます。お礼を言うことはどんなときでも欠かせない。

 私は小さい頃からピアノを弾くことが大好きだった。今は亡くなった母親が、最初に買ってくれたのが玩具のピアノ。単音だけど、ドレミファソラシドはちゃんと鳴った。私がそれに興味を示すと、今度は町外れにある教会に連れて行ってくれた。そこには白くて大きなグランドピアノが置いてあって、牧師さんが誰でも使えるようにしていてくれた。母はそこで私にたくさんの童謡を弾きながら歌って聴かせてくれた。
 ただ、一緒に歌うだけじゃなくて自分も弾きたいと強請り、母の大きくてキレイな手と同じ動きで鍵盤を叩くことに夢中になった。そんな日が何日も続いて、暫くした後に初めて母が訊いてきた。
『小夜はピアノを弾くのが好き?』
 私は躊躇わず、大きく首を動かして頷いた。
 母の真っ黒い目は、私と一緒になって悪戯をする ―― たとえば、泥だらけで遊んだ帰り道、父を見つけたときに私たちはたいてい顔を合わせて抱きつけーって示し合わせる ―― ときのような、何かしら面白いことが起きるぞ、と予感させる楽しげな光を湛えていて、それを私はじっと見つめ返して更に続くだろう母の言葉を待った。
『……ピアノを習いたい?』
 それを聞いた瞬間、二回続けて頷いた。それだけじゃ足りないような気がして、「習いたいっ!」と大きな声で叫んだ。今自分の胸の中を満たすピアノに対する希望や、憧れ、熱意そのすべてを吐き出して、少しでも伝わってくれるように「習いたいよ!」と気持ちを溢れさせた。
 そうして、私はようやく町で一番のピアノ教室に通うことになった。それくらい母は習い事には慎重になっていた。結局、母がそうやって他にも遠回しに勧めたことで私が興味を持ったのは、後にも先にもピアノだけだった。
 コンクールにも何回も出場し、常に最優秀賞をもらうようになった。そんなときは、いつだって母は豪華な料理でお祝いしてくれて、獣医の父親はにんまりと笑顔が絶えず、動物に恐れられていた。だけど、「上には上がいるんだから。天狗にならないように」と釘を刺すことだけは忘れなかった。勿論、いろんなコンクールに出ている私にはそのことは十分わかっていたし、私にとってピアノは傲慢になるための道具じゃなくて、幸せな気分をくれる親友みたいなものだった。
 中学に上がった頃、母が病気で倒れた。父はずっと母に付きっきりで、私は不安を胸に抱えて、家にひとりでいることが多くなった。だけど、ひとりでいることが堪えきれないときは、教会まで行って、白く大きなピアノで母と弾いたたくさんの童謡を弾きながら不安を一生懸命打ち消そうとした。

 タロウと出会ったのは、そんなときだった。

 ピアノを弾いていると、小さな鳴き声が聴こえてきた。くぅん、くぅうん、と甘えた声。私は鍵盤を叩く手を止めて、足元を見下ろした。くぅん…、と足に擦り寄って、小さな瞳で見上げてくる子犬がいることに気づいた。焦げ茶色の毛並みは、ほんの少し湿っているように見えた。
「おまえ、どこから来たの?」
 くぅん、と不思議そうにつぶらな目が見つめてくる。その姿があまりに可愛くて、思わず抱き上げていた。
「もしかして、ピアノに惹かれて来たの?」
 そんなわけないのに、冗談めかして言うと、まるでそうだと頷くように、子犬はピアノに視線を向けた。ぱたぱたと、丸まった小さな尻尾が左右に揺れる。なんだかその一生懸命な姿が可笑しくて、さっきまで不安で寂しくて悲しみで一杯だった心に温かいものが入り込んできた。気持ちが上向いてきて、座っている椅子の空いているスペースに置いてから、私が小さい頃、母と一緒に弾いていたときの言葉を口にした。
「よしよし。では、おまえのために、特別に大好きな一曲を弾いてあげようぞ」
 冗談めかした言葉に、ちらりと子犬に視線を向けると、まるで『弾いて弾いて!』と小さい頃の私のようにじっと鍵盤を見つめて、待っている。重なる姿に、懐かしい気持ちが溢れてきて、その気持ちに浸るように私は弾いた。
 初めて、母が弾いてくれた、小夜のための曲。セレナーデ。
 それは母とだけじゃなく、柴犬。命名、タロウ。父によると生後五ヶ月の、新しい家族との大切な一曲になった。



 タロウとの生活は毎日が大変だった。なにせ、獣医の父がいるわりには、我が家でペットを飼うのは初めて。父はペットが亡くなるときの悲しみを身近で感じているので、自ら飼おうとはしなかったし、私も母も、家族と約束をしたら一度だって破らない父への尊敬の証として、いつだって父の意思を尊重していた。だけど、タロウと出会った私が早速家に連れて帰ると、母の看病に付き添う父はひとりで私を家に残しているのは心配だったから丁度良かったとばかりに、しっかり面倒を見ることを条件に飼うことを了承してくれた。
 タロウは元気一杯の雄犬で、我が家の庭を掘り返すのが大好きだった。くんくん嗅いでは鼻で掘り起こし、真っ黒になる。真っ黒になった鼻ですりよってくるときは、可愛いけれど、制服を着ている日は流石に青ざめてしまった。だけど、タロウは賢いのか、何かを感じ取ったのか、母が普段から世話をしていた花壇には一切入らない。まるでそこが聖域でもあるかのように、いつも避けて通っていた。それから、散歩は一日二度。朝は早起きして、学校に行く前に。終わったら、ピアノ教室に向かう前に必ず連れて行く。そうしないと、タロウは我が家のどこであっても、トイレをしない。大きいものも小さいものも、全部外の、しかも草が沢山生えている中でしかしようとしなかった。我慢できないときは、庭にある柵をかりかり、と前足でかいたり、そわそわと落ち着きがなくなり、私や父がいれば、ズボンの裾や靴をかじったりして、とにかく、そそうはお外だと覚えてしまったらしく、だからこそ余計に散歩は欠かせないものになった。
 餌をあげるのもこれまた、大変。夏は食欲がなくなり、運動しているにも関わらず、丸一日食べないときがあった。心配になって無理矢理食べさせても、吐いたり下痢をしたりと調子が悪くなる。そんなときはいつも、父が点滴をして凌いでくれた。お願いだから、食べてと、私が泣きそうな思いで言いながら餌入れから手にいくつか乗せてあげると、ようやく少しずつ食べ始めてくれた。そのうち、夏でもそれなりに食べてくれるようになって、見る見るうちに大きくなっていった。
 父や病院にいる母は犬を飼うアドバイスはくれるけれど、いつもタロウは小夜が面倒を見るんだよ、とどうしても学校の事情で行けないとき以外は直接餌をあげたり、散歩も連れて行ったりはしなかった。毎日のことに、時々散歩が嫌になって行きたくなくなったり、纏わりつくタロウが面倒になったりしたことがあった。そんなとき、その気持ちを見透かし母が先回りして言った。
「小夜。タロウは人形じゃないの。生きてるのよ。感情だってあるし、お腹だって空くし、そそうだってする。私達と同じ命なの。小夜はその命を見捨てるの?」
 だって、お母さん。面倒なんだもの。散歩に行く時間がもったいないし、遊びたいし、纏わりついてくるのもうんざりするし。たまには、私だって ―― 。
 そんな気持ちが顔にでたのか、母は手を伸ばし、私の両頬を包んで、それからぴしりと軽く叩いた。
「いい? 小夜がタロウを見捨てるなら、お母さんもそうする。小夜を見捨てるわ。それがどんなにつらいことでも。そうじゃなきゃ、飼うことを許したお父さんもお母さんも、タロウに申し訳たたないもの。命ってね、小夜。めぐるものなのよ。あなたが大切にしないなら、あなたも誰にも大切にされやしないわ」
 まっすぐと私を見る目。その目は悲しみに潤んでいて、私は胸をつかれた。同時に『責任』という言葉の重みを感じ取った。
 病院から家に帰ると、タロウが待っていた。くぅん、と私の顔を見て悲しげに一鳴きする。それからすりよってきて、傍にお座りをした。まるで、何かあったの? そんな悲しい顔をして、と問いかけてるように。そんなタロウを見ていると、胸の中にあった嫌だと感じていたことが急に恥ずかしくなって、思い出した母の言葉に胸が苦しくなり、ぎゅっとタロウを抱き締めた。
「ごめんね……ごめん、タロウ。ごめん……」
 あったかい、命。
 そこで急に気づいた。私も同じ。母にお世話をしてもらって、守られて成長してきた。毎日の三度のご飯やおトイレ、歯磨き、送り迎え。面倒に決まってる。だけど、一度だって母は嫌がる素振りも見せず、育ててくれた。同じなんだ。自分で守ると決めた命。責任を持たなくてどうするんだろう。
「タロウ?」
 不意に抱き締めている腕の中でタロウがもぞり、と動いた。怪訝に思いながら離すと、タロウは跳ねるように家の中に入って、ピアノの椅子に飛び乗った。そこにお座りをして、へっへっと舌を出し、私をじっと見つめる。
 『 ―― 弾いて、小夜』
 まるでそう言っているように聞こえた。
 じわり、と胸の中に温かいものがこみあげてくる。ああ、どうしてだろう。どうして、タロウの世話を面倒なんて思ったりしたんだろう。こんなにもタロウは私を見ていてくれてるのに。一緒にいることがお互いとても大事だとわかってるのに。タロウに出会ったときの、幸せな気持ちがわきあがってくる。純粋にタロウといて、幸せだったときの気持ち。
「よし! タロウ。ピアノ弾こう!」
みるみるうちに、元気が湧き上がってきて、私はタロウと気持ちを分かち合う為に、鍵盤に向かった。

 それから、私にとってタロウの世話は三度のご飯より、「あたりまえ」のことになった。「あたりまえ」で、更に時間を共有する為の、大切な時間に ――。


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