風に聴くセレナーデ

モクジ/モドル/ススム

 02. 優しい風 

 高校にあがって、秋に、母が亡くなった ――。
 病気でずっと入退院を繰り返し、体調は健康なときのように戻ることはなくて、いつも青白い顔でほっそりとした身体に、体力はすっかり落ち、父も私も、そしてきっと、母も覚悟はしていた。もちろん、現実はどんなに覚悟しているといったところで、優しくはならなかったけど。それでも、私と父はまるで母が健康でこれからも変わりなく過ごしていくと少しも疑っていないように、未来の話を交わした。今度、まとめて休みが取れたら、どこかへ旅行に行こうとか。そろそろ鍋が旨い季節だから準備をしようとか。新しい高校でもっとたくさんのピアノ曲を習うから弾いてあげる、とか。タロウは冬が苦手だから、マフラーでも一緒に編もうよ、母は父にあげればいいから、と毎年冬が近づくと持ち上がる話題を変わりなく、私も父も心のどこかで感じ取っているなにかを、とても恐ろしく感じているのに、目を逸らして、それが母のためになるのだと信じながら、できる限り、笑って過ごした。

 青々しかった葉っぱはさらりと吹く風にさえあっけなく飛ばされていき、装いを失くしていく樹を二階の窓から眺めていると、その光景に、まるで今の母が重なり、思わず口を開いていた。
「ねぇ、お母さん」
「なぁに?」
 父のためにマフラーを編んでいる母の姿が、窓硝子に映る。手ごろな値段のレストランと同じおかずでも明らかにそれ以上の美味しいものを作れるほどの料理の腕の持ち主である母は、手芸関係は下手くそで、小学校の頃、雑巾をもってくるように言われたときには、使い古しのタオルをそのままで持たせて雑巾だと言い張るほど、苦手な分野だった。今も、マフラーを作っているにも関わらず、形は三角形で、ほつれているのは目に見えてわかるのに、最後まで諦めないのは母の素晴らしいところで私が尊敬し、父が惚れたと照れながら教えてくれた長所なのだろう。今も、手元をじっと見つめて一心に手を動かしている。それを窓硝子越しに見ながら、私は胸に圧し掛かる重さに耐え切れず、目をつぶった。
「小夜?」
 優しい声に促がされて、僅かに躊躇いを感じながらも口を開く。窓硝子越しに、母がじっと私を見つめていた。
「……前にね、お母さん。命は巡るものだっていったでしょ?」
「ええ。言ったわね」
「だったらどうして ―――」
 お母さんは……。
 口にしかけた言葉は重すぎて、途中で胸の中に落ちてしまった。代わりに、熱い感情が喉元を焼き尽くすかのようにせりあがってくる。
『どうしてお母さんは死ななきゃならないの?』
 誰よりも、命を大切に想っているのに。誰よりも、生きていたいと望んでいるはずなのに。
 どうして ――っ。
 ほんの二、三歳の頃、世界が自分の思うようにいかないことを知って我慢できず、怒りや悲しみをぶつけたときのように、わんわんと泣いて泣きじゃくって、母に訴えたかった。あの頃と違って、それができないのは、母にとって子どもの我侭を叶えることが出来ないことがどれほど残酷なことか知っているからだ。だからといって、我慢できるほどの強さを培ってもいなかった。
「小夜、おいで」
 私の胸の中の葛藤を察したのか、母は編み物をしている手を休めて、ぽんぽんっと自分のベッドを叩いた。素直に窓から離れて、母の傍に向かう。隣に座ると、私の手をそっと取った。ひんやりとした冷たい手に、悲しみが募っていく。潤みそうになる私の目とは違って、見上げた母の黒い瞳は明るく凛とした光が煌いている。たとえ、病気が母の身体を蝕み、その力を奪ってしまおうと、母の瞳の輝きだけはきっと、最期まで戦い続けると信じることができる。
「お母さんの命は巡り巡って、今度は風になるのよ」
 突拍子のない言葉に目を瞠る。
「どんなときも小夜の傍にいられるように。そうしてなにより、お父さんとずーっと一緒にいられるように」
「お母さん……」
「悲しまないでとは言わないわ。だけど、忘れないで。どんなときも、ふたりの傍にはお母さんがいるってこと」

「そんなの、わかんないよ!」

 我慢してきた感情が一気に爆発するのを感じた。それでも母はけして驚いたり、叱ったりするような表情を浮かべるわけでもなく、握っていた手に力を込める。ぎゅっと、強く。
「わかるわ。たとえ形が失われても、小夜が抱き締めて欲しいと思ったとき、こうして手を繋いで欲しいと思ったとき、他の誰かじゃなく、お母さんに傍にいて欲しいと思ったとき、いつだってそうしているんだってこと。小夜はきっと、気づくわよ」
 自信に満ち溢れた顔つきと口調は揺ぎ無く、断固とした事実であると信じさせられてしまう。そうであってほしいと思っても、そうならないことを理解するくらいの分別はついているのに。
 ―― だけど、私はやっぱり母の娘だから、少しでも母の言葉が真実であるかのように思い込むことにした。

 ひやりと冷たい風に身震いする。煙突から昇りゆく煙が流れていくのを呆然と見上げながら、こみあげてくる涙をぐいっと拭う。胸のなかで悲しみが押しつぶされ、苦しくなって息さえもできなくなる。拭っても次から次に溢れてくる涙は頬に痛みと熱を与えた。

 くぅん……。
 小さな鳴き声に、足下を見るとタロウが不安げな表情で私を見上げていた。おすわりをしているタロウと同じようにしゃがんで顔を合わせる。頭をそっと撫でた。
「お母さんは、風になったの」
 そんなわけないとわかっていながら、母が最後に私に残してくれた言葉を信じたくて、縋りたくて、タロウに言う。
「……風になって、ずっと私たちを見守ってくれるんだよ」
「わんっ!」
 私の言葉に反応するかのように、タロウは元気に吠える。普段は全く吠えないタロウだから、驚いた。まるで元気づけてくれるかのような声。ヘッヘッと舌をだしている顔はさっぱりわかっていない表情なのに。
 腕を伸ばして、ぎゅっとタロウに抱きついた。
「タロウ、タロウは傍にいてね、ずっといてね」
 枯れることなく流れてくる涙は、タロウの毛に吸い取られていく。
「わんっ、わんっ!」
 言葉がわかるはずがないのに、頷いてくれるかのようなその声に、慰められる。
 風が通り過ぎて、タロウの茶色くて優しい毛を揺らしていく。それに顔を埋めると、ピアノの音が聞こえてきた。

(……お母さん?)
 あれは、お母さんの音。
 優しくて、きれいで。力強い、まるでお母さんそのものの音にいつだって、憧れていた。
 初めて聴いた、小夜のためのセレナーデ。それは弾いてもらえなくなってもう何年も経過しているけれど、今だって一音、一音鮮明に覚えてる。

――小夜。
なあに?
―――ピアノ、好き?
うん! 大好きっ!

 瞼に浮かぶお母さんのピアノを弾く姿はいつも笑顔で、病床にいてさえ、なおその笑顔が霞むことはなかった。
 つらかったはずなのに。苦しかったはずなのに。

「お母さんは、がんばったよ」
 おつかれさま、と悲嘆にくれながら呟いた父の横顔はどこか誇らしげでもあった。

 小夜、忘れないで。
 他の誰かじゃなく、お母さんに傍にいて欲しいと思ったとき、いつだってそうしているんだってこと。

 風が、吹く。
 ――― とても優しく。
 タロウと私を包み込んで、流れていく。

 約束だよ、お母さん。
 私はそれを感じながら、母に最後の別れを告げた。

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