つよく、なりたい。
昨日あれから疲れてぐっすり眠って目覚めて、最初にそう思った。
私が消えてしまえばいいと思った。身動きできないなら、消えてしまいたいと願った。だけどそんなふうに逃げたって、大切な『声』を失って、さらに悪いようになってしまうだけだとわかった。だったら、逃げるんじゃなくて、
――強くなりたい。
自分の好きなものを好きだと言えるように。間違っていることは間違っていると、伝えられるように。合わせるんじゃなくて、流されるんじゃなくて、自分のために。――彼のためにも。
決意したとたん、胸の内にあったもやもやが晴れていく。
縁側に続く障子を開けると、やわらかな日差しが入り込んできた。部屋にだけじゃなく、決意した心の中にまで。
ひやりとした空気にぶるりと身体が震えて、ハンガーにかけたまぁくんのダウンジャケットを羽織る。包まれるぬくもりは、彼と雪の中で踊ったときの気持ちを思い出させてくれた。温かくて、嬉しくて、くすぐったい気持ち。今までそんな感情があることさえも忘れていたような気がする。
縁側に降りて庭を見渡すと、視界一面に広がる雪景色がキラキラと煌めいて見えた。
その眩しさに目を細める。空にのぼっていく白い息を追いかけて、何度も何度も息を吐く。しばらくそうして遊んで、ふと試してみたくなった。
瞼を閉じて、大きく深呼吸をする。吸って、吐いて。
――大きく吸って。
「あぁぁ――――っ」
声が出た!
信じられなくて、もう一度確かめたくて、大きく息を吸う。
「ア――――っ!!」
二度目も。
どこへともなく広がって、消えていく自分の声に、身体中から熱い何かがこみあげてくる。嬉しいとか、よかったとか安心するよりも。
歌いたい。私は歌いたい。もっと、自分らしく。大好きな歌を。
もう縛り付けられるのはイヤ。たとえ怪我をすると、傷つくことがあったとしても、外に出て自由に歌いたい。
胸の中から溢れ出てくる熱い想いは、いつも片隅にあった罪悪感さえ消し去って、忘れかけていた気持ちをよみがえらせてくれる。
「てんしさまーっ!」
そう呼ぶ声が聞こえて、身体を向ける。走り寄ってくるゆきちゃんはその勢いのまま抱きついてきた。しっかり受け止めて、ぎゅっーと抱きしめる。
「てんしさまっ、お声がでたの?!」
腕の中できらきらと無邪気に煌めく瞳で見上げてくる彼女に、うんと頷いた。
「……ゆきちゃん」
私が名前を呼びかけると、ぱぁっと笑顔が広がる。
「ありがとう、ゆきちゃん」
「ゆき、なんにもしてないよ?」
不思議そうに目を瞬かせるゆきちゃんと目線を合わせるために膝をついて、彼女の髪を優しく撫でる。
「凍り付いていた私の心をとかしてくれたのは、ゆきちゃんだよ」
――心だけじゃなく、声も。
「どうして……、どうして、てんしさまの心はこおったの?」
まっすぐに見つめてくる瞳は、なにかを探そうとしている眼差しで、今度は私が不思議に思う。純粋に好奇心というよりは、ゆきちゃんのそれは必死なようにも感じる。
座って話そう、そう提案して、私たちは雪投げのあと休憩していたときと同じように縁側に座った。一度、台所に行ったゆきちゃんが二つのカップを持ってきてくれた。中身は生姜湯。あったまるから、と和尚様が用意してくれたらしい。
ふたりで、縁側に並んで座り、生姜湯を啜る。カップから立ちのぼる湯気が温かい。
「……私もゆきちゃんと同じくらいの頃に両親を亡くしたの。両親は再婚で、引き取ってくれたのは血の繋がらない兄だった。兄は作曲家で私の声の才能も見つけてくれた。すごく優しくて、私には甘くて、――だけど、兄は壊れていたの」
「てんしさまのお兄さんは、お人形だったの?!」
壊れていた、と口にした途端のゆきちゃんの反応に、私は噴き出してしまう。
ちょっと難しいかも、と思いながら、うーんと首を傾げる。
「普段はとっても優しくて、そう。ゆきちゃんを想うまぁくんのように。だけど、私が傍を離れようとすると態度が豹変して……」
穏やかな目には狂気が宿って、まるで彼の心の暗闇に引きずり込もうとするかのように冷酷な雰囲気を纏ってしまう。その瞬間、見守ってくれていると感じていたことが、実は監視だったと気づいた。大切で、たったひとりの家族だと信じていたのに。
「急に怖くなったの。怖くなったけど、私には彼を見捨てることができなかった。それでも、追い詰められていくみたいで、息が詰まって、ある日とび出してきちゃった」
重い事実をそのまま告げることができなくて、ほんの少し冗談交じりの軽い口調で言う。心が悲鳴をあげていたことだけは間違いない。
笑おうとして、くしゃりと顔が歪むのがわかる。ぽたりと、手に持っていたカップに水滴が落ちた。
「てんしさま……泣かないで?」
小さな手のひらが膝に乗せられる。ぷにぷにとした肉感のあるもみじのような手のひら。
覗き込むように見上げてくるゆきちゃんに、うなずいて見せる。
「ごめんね」
泣きやまなきゃ。
――そう思うほどに、こみあげてくる熱い感情が喉に詰まって、まるで代わりのように涙が溢れてくる。
もしかしたら。
ずっと、彼の狂気に気づいてから、ずっと。私は泣きたかったのかもしれない。幼い子が自分の手に余る事態に遭遇して、両親に救いを求めるときのように。身近にいる誰かに差し伸べてくれる手を願うときのように。私だけじゃなく、彼も救ってほしくて。
「ゆきちゃんたちに出会って私の心は救われたの」
「ゆきたちなんにもしてないよ?」
さっきと同じように不思議そうに首を傾ける彼女の小さな手をとる。小さな手から伝わってくる温もりは深く心のなかにまでゆったりと沁みこんでくる。
「ゆきちゃんもまぁくんも、そして和尚さん。みんな、私を見て、まっすぐ向き合ってくれた。ここにいてもいいんだよ。いつでも話を聴くよ。だから逃げないでって、臆病になっていた私に付き合ってくれて、その気持ちに励まされたの。私も逃げてないで、まっすぐ彼と向き合おうって」
私の言葉をどうにか理解しようと首を傾げていたゆきちゃんは、やがて自分の中で理解できたことの結論を口にした。
「――てんしさまは元気になった?」
思わず私は笑顔になる。
「うん、ありがとう」
ぱぁっと花が開くようにゆきちゃんの顔に笑顔が広がり、繋ぎ合っている手をぶんぶんっと元気よく振って「よかったね!」と心から嬉しそうに言ってくれる。
その姿に今度は私が疑問を口にする。
「ゆきちゃんは……、ゆきちゃんが天使さまに訊きたいことって――?」
不意にゆきちゃんの顔から笑顔が消えて、視線を逸らすように庭を見る。その横顔は不安が入り混じった、悲しげな表情で、胸がぎゅっと締め付けられる。
最初のときも思った。ほんとうの『てんしさま』じゃない私が聞いていいことじゃないかもしれない。
――だけど、きっといま。ゆきちゃんは『わたし』を必要としてる。そう感じる気持ちから逃げたくない。
「てんしさま……、あのね、あの。……ママはてんごくでしあわせにくらしてるかな?」
躊躇いがちに言われた言葉が、鋭く胸を突き刺してくる。喉がごくりと音を鳴らす。
「ゆき、ゆきね。ママがいなくなるとき、いっぱいひどいことばを投げちゃったの。どうしてソバにいてくれないの? ゆきをひとりにするの? ママのばか! ママなんてだいっきらい! ママなんて――っ!」
「ゆきちゃん!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにするゆきちゃんを引き寄せて、腕の中に抱き締める。嗚咽を零しながら、ゆきちゃんは喋り続けた。
「……いま思い出すとね、ママ、かなしそうに、くるしそうにしてた。ゆきはいま、パパもたっくんもまぁくんもいてくれるからひとりじゃない。さみしくないって気づいたけど、ママはてんごくでひとりぼっちなんだってわかって、それなのにっ、ゆきはひどいこといっぱい言って、ママはてんごくで泣いてるんじゃないかなって」
「もういいよ、ゆきちゃん。もういい」
きっと、他の誰にも言えなかったゆきちゃんが堪えていた気持ち。ずっとこの小さな胸に抱えていたんだと思うと、泣きたくなる。
――ゆきが天使を必要としていて。
あのとき、まぁくんが言っていたのはこういうことだったんだ。
ゆきちゃんが抱える想いを同じように両親を亡くしたときに持ったことがある。
(どうして、わたしをひとりにするの?)
両親の遺体を前に幼かったわたしはわけがわからないまま、ただ独りになった寂しさだけを感じていた。それでも絶望しなくてすんだのは、血が繋がっていないとはいえ兄がいたからだ。彼はわたしが孤独を感じないようにいつも心を砕いて傍にいてくれた。兄自身も救いが必要だったにもかかわらず、ただわたしは甘えるだけしかできなくて。
あのときの兄の言葉は今も覚えている。
「……ゆきちゃんのお母さんはね、ここにいるの」
彼女の小さな胸を指さして言う。
ゆきちゃんは「ここ?」と目を瞬いて自らの手のひらを胸にあてる。
「大切に想い合う人同士はね、心が繋がって、たとえどんなに遠い場所にいてもわかりあえるの。だからゆきちゃんのお母さんはひとりじゃない。ゆきちゃんやまぁくん、大切な家族と変わらずに一緒にいるよ。心が繋がってるから、ゆきちゃんが幸せを感じるとお母さんも幸せを感じることができる。逆に寂しいって想っちゃうと……」
「おかあさんも、さみしいって感じちゃう?」
少し泣きそうな口調で、ゆきちゃんが続ける。じっと見上げてくる潤んだ瞳から視線を逸らさないまま頷いた。
「ひどいことをたくさん言って――もちろん、お母さんはゆきちゃんの気持ちはわかってたと思うけど、それでもゆきちゃんが悪かったなって思うのなら、少しでもお母さんが幸せを感じられるようにゆきちゃんが幸せにならなきゃ」
「ゆきが……?」
「うん。ゆきちゃんが心から笑って家族みんなといられることが幸せだと感じることができれば、お母さんも幸せになれるから。だからもうお母さんに言ったことで苦しんで泣かないで」
ゆきちゃんの眦から涙が零れ落ちてふっくらとした頬を伝っていく。手の甲でそっと拭ってあげると、ゆきちゃんはくすぐったそうに笑った。ふたつの頬は林檎みたいに真っ赤かで可愛らしく、自然と頬が緩む。
「……ゆき、ママにしあわせでいてほしい。わらっててほしいっ」
素直なゆきちゃんの言葉が自分の想いと重なる。
あのとき、同じように願って、誓った。
(――わたし、幸せになれるように頑張るよ!)
いつのまにか、その気持ちを忘れてしまっていた。
ゆきちゃんの真っ赤になっている頬っぺたふたつに手を伸ばしてそっと触れる。まっすぐ見つめてくるあどけない瞳にうつる自分の顔。脳裏には彼の姿が浮かんで、わたしはそれを振り払った。
もう甘えているだけなんてできない。
その気持ちに推されるように、わたしは口を開いた。一言一言に重みがあるかのように、ゆっくりと。
「幸せだよって、大切な人に胸を張って言えるように、その想いが伝わって、大切な人も幸せにできるように、ゆきちゃん、前を向いて生きていこうね」
まだ、幼いゆきちゃんに全部は伝わらないかもしれない。それでもいつかこうして話したことが、ゆきちゃんのひとつの道しるべになれるのなら。わたしのように――。
「てんしさま、ゆき、しあわせになるって、やくそくするよ!」
そう言って、小指を差し出してきたゆきちゃんに、わたしも笑って同じように小指を差し出し絡ませる。
「やくそくするから、ママに伝えてね。ゆきはしあわせになるから、ママもしあわせにくらしてね。ゆきが会いにいくまで、わらっていてねって」
祈るように、願うように、ゆきちゃんは絡ませているお互いの小指に小さな額を押し付けて、キスを落とす。その姿に、胸が熱くなる。
ゆきちゃんの思うような天使じゃないけれど、それでも一点の曇りもなく、頬を真っ赤に染めて笑う姿に、その役割を少しくらいは担えた様な気がして、同時に自分の心が救われていくのを感じていた。
――これ、ありがとう。
畳んだダウンジャケットとマフラーをまぁくんに渡そうと差し出すと、彼は軽く首を振った。
「外はまだ寒いだろ、つけていけよ。また、倒れられたら大変だからな」
そっけない口調は最初は怖いと感じていたけれど、そこに潜む優しさに気づけば、横を向いているのも照れているからだとわかる。
「まぁくん、やっさしー」
「うるせぇよ、親父!」
和尚様がからかうように言いながら、彼の髪をぐしゃぐしゃにして撫でる。迷惑そうにその手を払いのけられて、和尚様は代わりにゆきちゃんの頭にぽんっと手のひらを乗せた。
「ほら、ゆき。黙ってないで何か言ったらどうだ?」
視線を向けると、ゆきちゃんがじっと見上げてくる。
「てんしさま、もうかえっちゃうの?」
もう少しおはなししたかったのに、と拗ねるように呟く声を聞き取って、わたしはしゃがんでゆきちゃんに目線を合わせる。
「また、遊びに来るよ」
「ほんとに?」
「うん、ゆきちゃんに会いたいから」
わたしの言葉に寂しそうな表情が一転、明るくなる。期待を込めた眼差しを向けられて「待ってる!」そう笑ってくれた。わたしも笑い返して、立ち上がり和尚様にお礼を言う。
「かまわんよ。あなたの心がこの場所を求めるなら、いつでも戻ってきていい。此処は翼を休めて飛び立つところだ」
少し悪戯っぽい瞳をする和尚様に、ハッと息を呑む。
言葉の端々にある温かみが、この寒い空気の中でもじんわりと心に沁みてくる。
――飛び立って、頑張って。また疲れきってしまったら。
休める場所を持たないわたしには、なによりも嬉しい言葉。
お礼を口にしようとしても、熱い塊りが喉を塞いで言葉にできなくて、ただ想いを込めて頭を下げる。
(有難うございます!!)
顔を上げると、その気持ちが伝わったかのように、和尚様はふっとやわらかい笑みを浮かべてくれた。それから丁寧にお辞儀を返してくれる。
「雅也、おまえは階段下まで送っていけよ」
頭を上げた和尚様が当然のように言った言葉に驚いて首を振る。
「えっ、大丈夫です! 下まで行けばタクシーが待ってますからっ!」
「ここで遠慮なんかすんなよ。転んで落ちたら意味がないからな。下まで送ってく」
ぽんっと軽く頭に手を乗せて、すぐに彼は先に階段を下り始めた。待って、とか大丈夫っとか引き止めようとした言葉は間に合わず、さっさと下りていく彼の背中を呆然と見ていると、後ろから和尚様が笑いながら声をかけてきた。
「これもまた、修行。遠慮は無用だ」
「うむ、無用だ!」
鷹揚に頷く和尚様に真似て、ゆきちゃんが言う。階段下から「うるせぇっ!」と返ってくる様子に思わず噴き出してしまう。和尚様とゆきちゃんに手を振って、彼のあとを追いかけることにした。
「わぁ、こんなに長い階段だったんだね」
下りた先がまだまだ見えずに、ひたすら続く階段。それなのに、階段には雪が積もっておらず、左右に寄せてあることから雪かきしたことがわかる。
和尚様たちが見えなくなったところで、滑ると困るからと、まぁくんが手を差し出してくる。照れてることが丸わかりの赤く染まった頬にどこか浮かれた気分になりながら、わたしはその手を握った。手袋越しの大きな手のひらに、泣きそうになる想いを感じながら涙を零さないよう、ぎゅっと目を瞑る。
「そーなんだよ。だから今度倒れるときは、せめて階段上がってからにしてくれ」
頼むから、と続けられた言葉に、気づいた。
――ということは、わたしを連れて階段を上ってくれたってこと?!
ひとりで降りているだけでも十分疲れてしまうだろう階段の長さ。しかも5分やそこらでなんて上りきれないに決まってる。
「……迷惑かけてごめんね」
彼の背中をじっと見つめて言う。
「迷惑だとは思ってねぇよ。面倒だとは思ったけどな」
それは聞いた。
率直な彼の言葉はやっぱり不快にはならずに、心は穏やかなまま受け止めることができる。
うん、と言うだけで止めて、階段を下りる。沈黙が続いても、繋がれている手が温かくて、それだけで満たされているみたいで。
ようやく、階段の終わりが見えてきたところで、彼が口を開いた。
「ゆきのこと、助かったよ。あいつの心の重荷はさ、“てんしさま”じゃなかったら解けなかったと思うからさ」
「……わたしで良かったのかな?」
ゆきちゃんに言った言葉は嘘じゃないけれど、本物の“てんしさま”じゃない、わたしの言葉。助かった、と言われるほど役に立ったのかは自信がなくて。
ギュッと一瞬だけ繋がれている手に力がこもって、階段を見ていたわたしは彼の背中に視線を向ける。
「いーんだよ。あいつに必要だったのは“てんし”っていう存在だ。本物とか偽者とかじゃなく。けどさ、俺たち家族にその役割はできないから、あんたが来てくれて助かった」
ほんとこれが良縁ってやつだよなぁ、と楽しげに呟きながら言う。その言葉にわたしの心の中にあった罪悪感が薄れていって、彼の呟きに噴き出す。
「良縁の意味が違うよー」
「良い縁じゃん。一緒だろ」
そんな言い合いをしながら、あっという間に残りの階段を下りきってしまった。
少し先にタクシーが待っているのを見つけて、そこまでふたりで歩いていく。
「あー、タクシー代は運転手が親父の知り合いらしいから、気にすんなって」
「えっ、でも!」
「返すんなら、また会えたときでいい。ま、よーするにどっちでもいいってこと」
わかった、と押し付けじゃない優しさに、ほっと息をついた。
タクシーのところまで来ると、後部座席が開く。
それを見ても、なんとなく繋いだ手を放せなくなっていた。ドアの側で彼と向かい合わせになる。真っ黒い瞳には真剣な光が宿って、まるで心の奥まで見透かそうとするかのように、じっと見つめてくる。
「“てんしさま”は飛び立つ覚悟ができたのか?」
思わず目を瞬かせる。
繋いだ手に視線を動かして、そこから伝わってくるぬくもりを確かめるように瞼を下ろす。真っ暗な脳裏に浮かぶのは、ゆきちゃんとの約束。
――幸せになる、約束。
頬が自然に緩むのを自分でも感じ取って、目を開ける。まっすぐに見つめ返して、うなずいた。
「わたし、もう負けない」
「……そっか」
まぁくんの眼差しも穏やかなものに変化して、彼は安心したように息をつき、繋いでいた手を放そうとした。わたしはその手を慌てて引き止める。
「ま、待って!」
「え?」
疑問の声を上げる彼に、ほんの少し焦りを覚えながら言い募る。
「あの、あのねっ、また、会いにくるから! だから、そのときはもう一度。あのダンスを踊ってくれる?」
どうしてかわからない。わからないけど、こみ上げてくる衝動そのままに言葉にしていた。
目を丸くして驚いた表情を浮かべたものの、彼はすぐに笑みを零して空いている手でくしゃりとわたしの髪を撫で回す。
「いいけど、そのときは代わりに、あんたの歌を聞かせてくれよ」
優しい眼差しにどくりと心臓が鳴る。
それはきっと、わたしが歌いたいと思う歌を、という想いが含まれていることに気づいて、心に重く圧し掛かるけれど、同時に励まされたような気持ちにもなる。
「――わかった」
彼の気持ちが伝わったことを教えるために精一杯の笑顔を浮かべながらうなずいて、繋いでいた手をもう一度ギュッと握ってから、ゆっくりと放した。
たくさんの『有難う』が伝わることを願いながら。
「またな、――」
お別れに再会を願う言葉を言われたことが嬉しくて。
同じように、またねと返そうとして声が詰まる。溢れてきそうになる熱い感情を悟られる前に、ただうなずいて、そのまま誤魔化すようにタクシーに乗った。
ドアはすぐに閉まって、ゆっくりと走り出す。
後部座席から振り向くと、彼が降りしきる雪の中に立ったまま見送ってくれる姿があった。
『――またな、“てんしさま”』
堪えきれず、熱い雫が手に零れていく。
拭わないまま、離れていく姿に、ほんとうは返したかった言葉を呟く。
「またね、まぁくん」
呟いた瞬間、胸の奥になにかが燻り始めたような気がした。
今まで知らなかった、感情。
これから会うひとに、望まれてもけして、持つことができなかった気持ち。
あの雪の中で彼とダンスを踊った瞬間から――。
だけど今は、その気持ちは奥深くに閉じ込めて、自分が今まで避けて、逃げて、すれ違うままにしておいたことから、立ち向かっていこう。
そう心に決めて、まだ温もりの残る手のひらを強く握り締めた。