2009年06月23日

01:始まりの朝(1)

―― 海の匂いは好きじゃねぇな。
 暗闇の中でも目立つ派手な赤色の大型バイクに寄り掛かりながら、目の前で月明かりに照らされている海に視線を投げる。煙草を銜えてなかったら、舌打ちを鳴らしていたところだ。潮風もバイクにいいとは言えない。
(明日は仕事も休みだから、久々にメンテナンスするのも悪くないな。)
 最も、今夜の計画が上手くいけば、というところだろう。
 計画を立てたものの、すでに手から離れてしまった今は、どう転ぶかは実行者にかかっている。腕に嵌めている時計を確認する。丁度針が三を示したところで、自動車のエンジン音が聞こえてきた。

「相変わらず、正確なヤツだ」
 もう少しルーズなら可愛げがあるものを、と苦笑いしながら寄り掛かっていた背中を起こして、バイクに向かい合う形で止まった自動車に身体を向ける。
 黒のBMWは持ち主の性格を思わせるように埃ひとつなく暗闇の中でもわかるほどキレイにしていて、月明かりに反射し輝いている。ドアが開いて、黒いスーツを纏った青年が降りてきた。美の化身とでもいうのだろうか。整った顔に鼻や目、唇がバランスよく位置し、一見性別不明なほど美しく見えるものの、表情はぴくりとも動かず、ただ肩よりも下あたりまで伸ばされた長い黒髪が風に揺れていた。出掛ける前は、ひとつに結んでいたなと思い出した。光加減で金色に変わる目立つ自分の髪とは裏腹に、艶やかな黒一色のその髪を羨ましく感じていた。もっとも、自分の男らしさがある顔つきは気に入っているし、それをネタに目の前の男をからかえるのは愉しみのひとつだが。

「時間通りですね」
 表情と同じく平坦な口調で告げられ、にやりと笑みを返す。
「俺の計画が完璧な証拠だろう」
「何とでも言ってください。それより、部屋は用意できているんですか?」
 自慢げに吐いた言葉はあっさりと一蹴され、話題を変えられた。つれないね、と肩を竦めて、金色に煌く瞳に睨まれる。それに苦笑が浮かんだ。
「ああ。トラップを何百通りもかけて、そのなかにひとつだけ準備しておいた。いくら白銀の双頭であっても、そう容易くは見つけられないさ」
「見つからない、というわけにはいかないでしょうね」
 相変わらず表情は浮かんでいないものの、口調に物憂げな調子を感じ取って、思わず目を瞠った。それに気づかれる前に、すぐに言葉を返す。
「無茶言うな。俺はそこまで自分を過大評価できねぇよ。白銀のアニキは直感力に優れ、統率力や判断力がずば抜けてるし、弟は一見柔らかい印象に誤魔化されてしまうが、俺が世界トップに認めてもいいほど頭がキレる。今回俺が裏をかけたのは、奇跡だってくらいな」
「……そうですね。そうでなければ、彼女を隠し捕らえたままではいられなかったでしょう。彼らだからできた、僕もそう認めてはいます」
「だが?」
 頷きながらも、言葉が続きそうだと先を促す。
 視線を暗闇に染まる海へと向け、その先の何かを探すかのように目を眇める。無表情なはずのその横顔にわずかに憐れみが浮かんでいるように思えた。同情、と決めつけるには、青年が感傷を抱く性分ではないことを知りすぎていた。年齢のわりに大人びている。そうであることを求められているのだから仕方ないかもしれないが、こうした表情を目にすると、胸のどこかでほっとしている自分を感じる。
「ですが、陽子さんや陽菜さんの言うように、彼女は羽ばたくべき存在でしょう」
 結局は写真や映像を通してしか見ることがなかった今回の標的である少女の姿を思い浮かべる。
 白銀家の双頭と呼ばれる双子が大切に隠している宝珠。
 最初に聞いたときは儚く弱々しい雰囲気を想像したものだが、陽子さんや陽菜の話から聴くたびにその印象は心根の強い、頑固な少女へと変化した。確かに言われて見れば、写真で見るぱっちりとした黒い瞳には気の強そうな光が浮かんでいた。本来は長い茶髪も、双子のどちらかは忘れたが、長い髪が好きだと言われてその次の瞬間には自分ですっぱり耳のところまで短く切った、と陽菜が教えてくれた。その際、相当の罰を与えられたらしい。双子は直接的体罰を与えることはしないが、まるで真綿で首をじわじわとしめつけるような、精神的苦痛を与えるのだそうだ。
 それを思い出して、胸糞悪い気分になった。たとえ地位や権力があったところで、誰かを思うとおりにしていいはずがない。

『ともにぃ。おねがい。キリちゃんを助けて。おねがい。キリちゃんはあんなところにいちゃいけないの。陽菜はキリちゃんの笑顔がみたいの。おねがい!』

 幼い陽菜が精一杯の気持ちをぶつけてきた。
 泣きじゃくりながら、たすけて、と。キリちゃんをたすけて。そう繰り返し、全力でぶつかってきた。
(あんなふうに言われて、動かなきゃ男じゃねぇよな。)
 女の子ひとり助けられず、小さな女の子の本気のお願いを聞き届けられなくて、男である意味がない。そうして、実際に彼女に会った向かい合う青年の言葉に自分が間違っていなかったことを確信する。
「陽子さんの頼み、陽菜の願いだ。俺たちが飛ばしてやろうぜ」
 力を込めて言えば、青年の目が向けられる。夜の闇でもきれいに煌く金の瞳には強い光が浮かんでいて、それが同意であることは長い付き合いからわかった。表情は変わりがないのに、今夜は容易く青年の心を見透かせることに好奇心が疼く。
「気のせいか、おまえも随分この件は乗り気だな。どうしてなんだ?」
 珍しい、と含んだ口調に、青年は再び視線を海へと戻しながら、更に珍しいことに嬉しげな響きがある声を放った。
「それは、秘密です」
 思いがけない言葉を返されて、銜えていた煙草がぽろりと落ちた。

01:始まりの朝(2)

 目の前にそびえ立つビルの壁にほとんど遮られて、窓から入り込む光はほんの一筋だった。今までは陽の光が溢れるほど差し込んでくる部屋にいたけれど、そのときよりも今見ている一筋の光は霧華の心までも照らしてくれる。部屋も狭いのに、とても新鮮で自由な空気を感じられた。ほんの少し、これから何が待ち受けているかと不安もあるけれど、やっぱり喜びが大きい。ずっとこの瞬間を待っていたのだから。
 ふと気配を感じて振り向いた。
 部屋は硝子仕切りで区切られていて、それを通して誰かがいるのは一目でわかる。相手も霧華が気づいているのはわかっているはずなのに、軽く仕切りを叩いた。
「開けてもよろしいですか?」
 丁寧な口調で許可を求められて戸惑う。
「あ……は、はい!」
 部屋に入られるのに許しを求められるなんて初めてで、返事が詰まってしまった。
 がらりっ、と硝子しきりが開く。
 佇んでいたのは、暗闇の中で霧華に手を差し伸べてくれた青年だった。
 整っている美貌は曲線的で女性のような顔つきをしているが、表情はどんな感情も浮かんでいるようには見えなかった。唯一、暗闇の中で鋭い光を見せていた金色の瞳も今は、柔らかい。あのとき風に靡いていた闇に溶け込むような漆黒の長い髪は背中で一つに括られていて、黒いスーツを身につけていなければ、女性と見間違えそうで、スーツを着ていても男装の女性で通りそうな面差しだった。
 水城(みずき)悠貴(ゆうき)という名前だと、この家に連れてこられて初めて教えてくれた。他の説明は後ほど、ととりあえず部屋まで案内されたところだった。部屋を見たら居間に来て欲しい、と言われていたことを思い出して慌てて言う。
「……ごめんなさいっ。いま、あの、そっちに行こうと!」
 謝って踏み出そうとして、かまいませんよ、とほんの少し苦笑交じりの声がかけられる。彼はしきりを開けただけで部屋には一歩として踏み入れる様子はなかった。ただそこに立ったまま言う。
「そう恐縮しないで下さい。僕は、少なくともこれから貴女と会う人間は、強制したり、貴女を閉じ込めたりはしないのですから」
 ぎくりと身体が強張る。
 自由になったはずなのに、その言葉でまだ自分のすべてに鎖がからみついていることを自覚する。引きずられ、深い暗闇へ堕ちていきそうな恐怖が一気に襲い掛かってきた。
「霧華さ ―― 」

「キリちゃんっ!!」

 どんっ、と立っていた悠貴を押しのけて、なにか小さな塊が勢いよく走りこんできた。

「っ、!」
 全身でぶつかってきた塊を受け止めきれずに、わっ、と床に倒れてしまう。
「キリちゃん! キリちゃん! 会いたかったよ、キリちゃん!」

 ――― キリちゃん。
 なんの裏の含みもなくそう自分を呼ぶ声。
 なにもない世界で、さっき見た一筋の光そのものだった、声。純粋で優しくて、凍り付いていく心を包み込んでずっと、守ってくれていた温もりのこもる、声。
「……陽菜?」
 信じられなくて。
 その声を間違うはずがないのに、こんなにも近くで聴けることがとても現実とは思えずに、腰にしがみついたままぎゅっと抱きついている幼い少女を見下ろす。途端、少女は顔をあげた。
 淡い薄茶のやわらかい髪、小さな鼻に唇。涙を浮かべている青みがかった瞳に胸がいっぱいになる。
「陽菜!」
「キリちゃん!」
 こみあげてくる、熱い感情。
 ずっと、会いたかった。唯一、心の支え。
 溢れてくる涙が堪えきれずに頬を伝うのを感じながら、強く抱き締め返す。こうして抱き締めることができるなんて思いもしなかった。

「……あの、すみません」
 申し訳なさそうな声に、はっと我に返る。

 口調とは裏腹に相変わらずの無表情で悠貴が佇んでいた。ほんの少し居心地が悪そうにしているように見える。視線が僅かに揺らいでいることに気づいて、急に恥ずかしさがこみあげてきた。その空気を読んだように、陽菜も身体を離したものの手を繋いでから振り向いた。
「ゴメンね、ゆーくん。キリちゃんが居間にくるまでがまんできなかった」
 悪戯っぽく笑って首を傾げる。その言葉に疑問を感じて、陽菜を見下ろした。
「えっ、陽菜。居間で待ってたの? そんな気配なかったけど……」
「へへっ。キリちゃんをびっくりさせようと思って、かくれて待ってたんだー。気配はね……」
 子どもが秘密をコッソリ教えてくれるような、楽しげな笑顔を浮かべる陽菜の言葉は途中で別の声に遮られた。
「俺が隠してやったんだって、おい。こんなとこで立ち話じゃなくて、向こう行こうぜ。美味いお菓子と珈琲も淹れたからよ」
 悠貴の後ろからヌッと現われたのは、やけに体格の大きい男性だった。窓から入り込んだ日差しが丁度彼に当たって、髪が煌いている。切れ長の目は深緑を思わせる色に染まり、からかうような光を浮かべていた。白いTシャツに膝の擦り切れた薄青のジーパン姿は黒いスーツに身を包む悠貴とは対照的なのに、ふたりが並んでいるととても自然なものに思える。
「隠してやったって……」
「いいから、キリちゃん。あっちいこうよ! まだまだ会わせたいひともいるんだから!」
 戸惑う私に構わず、陽菜は明るくそう言って、繋いでる手を引っ張った。その強さに導かれるように頷いてついていく。
 部屋を出て廊下に出る。男性を先頭に、悠貴、陽菜と続いていくと、途中で悠貴がトイレとお風呂の場所を説明してくれた。ついでに此処があるマンションの一室だということも。霧華に最初に教えた部屋以外にはあと、三つほど部屋があるらしい。
 居間に入ると、太陽の光が全面に注がれているソファが見えた。三人掛け用の淡い紺色のソファに、一人掛けの肘置きつきの椅子、間には硝子テーブルがあって、対面には段上がりで二人ぐらいが寝転べる畳みが敷かれてあった。
 適当に座ってください、と言われて、陽菜と一緒に三人掛けのソファに座る。悠貴は一人掛けの椅子に、もう一人は畳みにあぐらをかいて座った。 四人が座ったと同時に、ひとり男の子が台所らしき場所からトレイを持って出てきた。
 黒に近い茶髪は短くかりあげられていて、それよりも明るい薄茶の目がじっと私を見ていた。中学生くらいの年齢で、クマの絵柄がついている黄色のエプロン姿がなんとも可愛らしい。ほのぼのとしている彼の印象に見入っていると、トレイからそれぞれマグカップを渡していた彼に差し出された。慌てて受け取って、お礼を言う。少年はぺこり、と頭を下げて、ソファでも畳でもなく、敷いてある長めのふわふわの毛が織り込まれている絨毯に直接座った。
「では、とりあえず全員揃ったので紹介をしましょう」
 口火を切って、悠貴が言った。
「まずは珈琲をもってきてくれた彼が、高階(たかしな)明(あきら)くん。年齢は16歳です。趣味は家事一般、特技は簡単に言ってしまうと、犯罪行為でしょうか」
「…………悠貴さん」
 あっけらかんとした口調で言う悠貴に不満そうな声をあげるものの、それ以上はなにも言わず、ただ非難めいた視線を悠貴に向けていた。
「すみません。他に言い方はわからなくて。詳しくは実演されるまでのお楽しみということで」
「んで、俺は明の兄で巴(ともえ)。趣味はバイクで特技は、まぁ、パソコンとか機械関係だな。何でも作るのは好きだから、ほしいものがあったら言ってみろ。低価格で作ってやるぜ」
 そう言ったのは、畳に座っている男性だった。にやりと楽しげに笑みを浮かべて、手を挙げる。
「ともにぃ、タダじゃないのー?」
 陽菜が隣で拗ねるように言った。
「ばぁか。世の中そんな甘くないっての。陽菜ちゃん、タダで何かして欲しけりゃ、いい女になって、俺に媚でも売るんだな。そしたら考えてやるぜ」
「巴……」
 呆れたように溜息をつく悠貴に向かって、巴は「冗談、冗談」とパタパタと手を振り豪快に笑った。
「はいはーい! 次はわたしね。キリちゃんの妹の陽菜でーす! 特技は……」
 元気よく手を挙げて、自分の紹介をする陽菜に苦笑する。

 陽菜とは血は繋がっていない。むしろ、陽菜は白銀当主である零くんやイチくんと母親違いの兄妹になる。正妻の彼らとは違って、愛人の娘である陽菜は立場は弱かったものの、唯一の娘として、当主には可愛がられていて、だからこそ傍にいることが許されていた。まっすぐで明るい陽菜が可愛くて、一緒にいるのが楽しかった。あの頃はまだ外に出ることも許されていたから、ふたりでいろんなところに出掛けては、遊んだ。本当の姉妹のように ――― 4年前、当主が死んでしまって、あのふたりが跡を継ぐまでは。

「……っ、キリちゃん!」
 大きな呼びかけと、腕を揺すられて、ハッと我に返る。陽菜が気遣うように見上げてきているのに気づいて、慌てて首を振った。
「大丈夫、なんでもないよ」
「それならいいけど。次はキリちゃんのばんだよ」
 まだ疑うように眉を顰めていたけれど、小さく肩を竦めて陽菜が言う。その言葉に周囲を見回すと、全員の目が霧華に集まっていた。多くの視線に晒されることは慣れてなくて、どきどきと胸が高鳴る。
「月花(つきはな)霧華(きりか)で……えっと、」
「キリちゃんの特技は気配を読むことでーす。ちなみに好物は白和えとか白身魚のフライに卵焼きでしょー。あとねー」
「ひっ、陽菜!」
 何を言えばいいのかわからずに戸惑っていると、陽菜がはいはーいと手を挙げて代わりとばかりにすらすら喋っていく。口を塞ごうと手を伸ばしかけて、プッとふきだす笑い声が聞こえた。視線を向けると、お腹を抱えて巴が笑っている。かぁっと頬に熱が集まるのを感じた。
「わ、わりぃ。でも、その好みは、まったくもって悠貴と一緒でさ……」
 笑い声の合間に、聴こえた言葉に目を瞠る。
「巴……どうにもあなたという人は」
 悠貴が呆れたようにはぁっ、と溜息をつくと同時に、ごんっと重い音が聴こえた。いつの間にか巴に近づいていた明が手にしていたトレイで彼の頭を叩いたらしい。
「……ってぇ! こらっ、明っ!」
「悠貴さんを笑うからです」
 睨み付ける巴にさらりと返して、明は再び座りなおした。巴の視線なんて欠片も気にすることなく、むしろ満足感に浸っているようで、その様子に今度は思わず霧華がふきだした。笑いがこみあげてくる。
「きりちゃん……」
 陽菜が驚いたように名前を呼ぶ。
「ごめん、だって面白くて……」
 どうにか笑いを堪えながら言うと、陽菜の顔もパッと明るくなって同じように笑い出した。気がつけば、巴もどこか面白そうに笑っているし、明も嬉しそうに微笑んでいる。悠貴もわずかに頬を緩めているのが見えて、霧華の胸に温かい想いが広がっていく。
(こんなに笑ったの、いつ以来だったかな……。)
 まだ自分は笑うことができる、ということを思い出せたことが嬉しかった。
 ――――自由。
 物心ついたときから憧れていたもの。
 手に届かないものだと思ってた。どんなに手を伸ばしても、あの空に触ることすらできないんだと。それでも、今はいつかあの空の下で自由に飛びまわれるような、そんな希望が胸に生まれていた。

プロローグ(スクランブル~)

 ふむ、と男は手に持っていたティーカップに口をつけ、中身を味わってから満足げに頷いた。大きく黒いトップハット。黒いタキシード。すべてが黒く染まる中で、月明かりが男の顔を淡く照らす。秀麗な眉もスッと伸びている鼻も薄い唇と端整な顔立ちは中性的にも見える。ティーテーブルの椅子に腰掛け、優雅な動きでカップを持ち上げ傾ける仕草には隙がなく、女性がこの場にいたならば見惚れて溜息を零したことだろう。だが今は男一人しかテーブルにはいない。その向かい合わせにはもう一人分の用意がしてあるにも関わらず、男は一人だった。
 「今夜の紅茶はまた、一際美味いと思わないか?」
 そこに誰かがいるかのように、男は話しかける。勿論、返事があるはずがなかったが、まるで応えを貰ったように頷いた。
 「そうだろう。今夜は特別だからね。ああ、勘違いはしないでくれ。今までだって、私は楽しんでいたよ。だが、やはり今夜は特別なんだ」
 そう言った男はカップを置いて、テーブルに立てかけていた黒いステッキを手に取った。同時に椅子から立ち上がる。そろそろなんだよ、と肩を竦めてみせた。
 「今夜、久しぶりに『扉』が開く。だから、私は迎えに行かなければならないんだ」
 くるりとステッキを一振りする。そうして、先の部分でコツコツと地面を叩いた。ひやりとする冷たい音に、男の口端がつっとつり上がる。空に浮かぶ月を見上げて、深く被った帽子からかろうじて覗いている黒い瞳がスッと細まった。
 「 ―― 待っていてくれるね。私の、」
 呟いた言葉は、最後まで落とされないまま、男はティーテーブルから背中を向ける。まるで笑っているかのように小さく肩を揺らして、足を踏み出した。

 歩き去っていく後ろ姿を、真っ赤に染まる満月だけが追いかけていた。

 さっきまで男が座っていた椅子にぴょこんっと、小さな兎が飛び乗った。兎 ―― 確かに耳は長く顔だけ見ればそのものだが、目は青い。なによりも、胴体がまるで人間の幼い子どものようではあるが、手足がある。茶色いふわふわの毛に包まれてはいるけれど。
 兎は、男が飲んでいた紅茶が入っていたカップに小さく黒い鼻を近づける。くんくん、と匂いを嗅いで不満そうに顔を顰めた。
 「相変わらず、こんな水で薄めた飲み物を飲みやがって」
 発せられた声は、低い男性の音をしている。
 ケチをつけた兎はその手をテーブルに山盛り乗っているスコーンに伸ばした。ひとつ掴んで齧る。屑が零れ落ちたが、気にすることなくむしゃむしゃと食べ続けた。食べ終わって、ふんっと鼻を鳴らす。
 「まあまあだな」
 ふと、兎の視線が向かいに用意されている空っぽのティーカップに注がれた。気ままに振舞っていた兎の青い瞳が、切なげに揺れる。
 「 ―― 俺にはおまえの味方はできねぇよ。どうしたって、あの帽子屋と同じ気持ちなんだ」
 そこにはやっぱり兎しかいないのに、まるで返事がわかっているかのように頷いて、小さな肩を竦める。
 「あぁ。だが、少しくらいなら選択の余地ってやつを与えてやってもいい。どうするか決めてもらって、それでも俺はやっぱり此処に来て欲しいって気持ちは変わらねぇんだよ、俺の ―― 」
 最後の呟きは、もうひとつ口の中に放り込んだスコーンの欠片と一緒に飲み込まれてしまう。兎は空を見上げる。赤い月がじっと、浮かんでいた。『扉』が開いちまうな、そう言って、椅子からぴょんと跳ねて降りるとテーブルの下へと姿を隠してしまった。
 後に残されたのは、空になったスコーン皿と、ティーセット。二人分のティーカップが、静まり返った景色の中でかちゃり、と小さな音を鳴らした。

01:ようこそ、鑑定屋へ(1)(スクランブル~)

 エレメント通りは、この街において最も賑やかな場所で、お洒落な帽子屋、貴婦人専用の服飾店。高級宝石店、一見では入りにくい店構えのものから、気軽に買い物ができる開かれた大きな店など、様々なお店が並んでいる。
 その中にあって『骨董店』とだけ書かれた看板を入り口に立てかけてある店は、クリーム色の壁に黒地の扉と最も地味な色で塗られており、他の店と比較するとまるで息を潜めているかのようにひっそりと佇んでいた。

 ―――― 暇だわ。
 カウンターに片肘ついて、溜息を吐く。
 お店を開けてから一週間、これといって贔屓になるお客さんもできずに通りかかった老夫婦が好奇心にかられて覗いていくといったくらいで、お買い上げ品は今のところひとつもなかった。
「おい、エリィ。こんなもんどこから仕入れてきたんだ?」
 ふと、店の右端に並べてある棚から声が聞こえてきて、視線を向ける。赤銅色の毛並みに包まれた猫が骨董品のひとつである瓶の中を覗いていた。こちらには背中を見せているので、ふさふさの尻尾が揺れているのが見える。その動きを眺めながらやる気なく答えた。
「決まってるでしょ。エリオットさんが発掘して持ってきたの。サーベルジュ時代に王室で使われていた花瓶で結構、珍品よ。あの時代は、三百年前に……」
「あー、わかったわかった。もういいよ。そんな詳しい説明されても興味ねぇって」
 うんざりしたように頬の髭をぴくぴくと小さく動かして、首を振る。それを見てせっかく乗り気だった気持ちが途端に沈んでしまった。
「訊いてきたのはチェシャでしょ。教えてあげるのに態度が悪いわ」
「猫に礼儀を解かれてもなぁ。にしても、よーくこれだけガラクタばっかり集めたよ。本当にすげーな、おまえさんのそのやる気だけは」
 呆れたように言うと、瓶の置いてある棚からタンッ、と軽やかに降りた。一瞬、ぐらりと瓶が揺れるのを見て、慌ててカウンターから立ち上がる。
「ちょっ、危ないでしょっ、割れたら ―― 」
 そう言ったところで、お店のドア上部につけている鈴がリリーン、と音を鳴らした。ハッと言葉を止めて視線を向ける。
 入ってきたのは、若い男性だった。黒いトップハットにちらりと見えるブロンドの髪。一目で上質だとわかる黒いフロックコート。皺一つないスラックスは同じ黒で纏められていた。手には白い手袋をして馬を模した銀細工が頭についている杖を持っている。
 貴族かしら、とエリィは商売柄、相手を見定めながらとりあえず、笑顔を浮かべて、「いらっしゃいませ」と挨拶をした。男性はにこやかに微笑みを返しながら、店内を見回す。
「ちょっと拝見させてもらっていいかな?」
「ええ、もちろん。何か質問があれば、声をかけて下さいね」
 男性の言葉に頷いて、再びカウンターの椅子に座りなおす。
 はっきり言って、あまり期待はしていない。貴族であったとしても、それなりに年齢を重ねて鑑定眼がないとこの店内に置いてある物の価値はわからないだろう。婦人たちにも気に入ってもらえるように幾らかは宝石箱やアンティーク系のペンダント、ブローチはあるけれど、やはり鑑定屋らしく、エリィは古くから伝わる瓶や用途のわからない置き物を主軸にしている。どれもが本物で珍しいものではあるけれど、鑑定屋が取り扱うものとしてはマニアック過ぎるものでもある。だからこそ、今入ってきた若い男性が店内のものを買っていくとは思えなかった。たまたま通りかかってひやかしに入ってきたに違いない。それでもお客はお客で、骨董品に興味を持ってくれるならそれでいいかもしれない。
 そんなことを思いながら、見るとはなしに男性を視線で追う。紳士らしく服装をきっちりと着こなしているにも関わらず、店内を歩いたり、商品を手に取ったり、じっと見つめたりする動きの雰囲気はやわらかい感じを受ける。自分とは全く縁がないものの、猫でありながらなぜか人間事情に詳しく、それこそ猫のクセにロマンス小説を好んで読むチェシャがよく口にする、プレイボーイというのは彼のようなひとを定義とするのかもしれない。そんな印象をもった。
(……見てる分には、目の保養かも。)
 なかなか目が離せずに、カウンター越しに見つめていると、不意に彼の視線が向けられ、ばっちりと目が合ってしまった。
「……っ!」
 慌てて視線を逸らす。しまった。いくらなんでもわざとらしすぎたかも。
 自分の行動にひやりと背筋に冷たいものが流れる。けれど、エリィの心配とは裏腹に、くすりと面白がるような笑みが聴こえた。思わず視線を彼に戻すと、口元を拳で押さえ、笑みを堪えている。再び目が合うと、先に言葉を発した。
「失礼、ちょっと質問があるんだけどいいかな?」
「えっ、あっ、はい、どうぞっ!」
 かっと頬が熱くなるのを感じたけれど、誤魔化すように慌てて返事をする。はぁ、とどこか呆れた含みのあるチェシャの溜息が聞こえたような気がした。
「ここにあるのは、店主が選んだものだよね。随分、珍しいものが揃ってるけど、どうやって見つけたのかな?」