2009年06月23日
01:始まりの朝(2)
目の前にそびえ立つビルの壁にほとんど遮られて、窓から入り込む光はほんの一筋だった。今までは陽の光が溢れるほど差し込んでくる部屋にいたけれど、そのときよりも今見ている一筋の光は霧華の心までも照らしてくれる。部屋も狭いのに、とても新鮮で自由な空気を感じられた。ほんの少し、これから何が待ち受けているかと不安もあるけれど、やっぱり喜びが大きい。ずっとこの瞬間を待っていたのだから。
ふと気配を感じて振り向いた。
部屋は硝子仕切りで区切られていて、それを通して誰かがいるのは一目でわかる。相手も霧華が気づいているのはわかっているはずなのに、軽く仕切りを叩いた。
「開けてもよろしいですか?」
丁寧な口調で許可を求められて戸惑う。
「あ……は、はい!」
部屋に入られるのに許しを求められるなんて初めてで、返事が詰まってしまった。
がらりっ、と硝子しきりが開く。
佇んでいたのは、暗闇の中で霧華に手を差し伸べてくれた青年だった。
整っている美貌は曲線的で女性のような顔つきをしているが、表情はどんな感情も浮かんでいるようには見えなかった。唯一、暗闇の中で鋭い光を見せていた金色の瞳も今は、柔らかい。あのとき風に靡いていた闇に溶け込むような漆黒の長い髪は背中で一つに括られていて、黒いスーツを身につけていなければ、女性と見間違えそうで、スーツを着ていても男装の女性で通りそうな面差しだった。
水城(みずき)悠貴(ゆうき)という名前だと、この家に連れてこられて初めて教えてくれた。他の説明は後ほど、ととりあえず部屋まで案内されたところだった。部屋を見たら居間に来て欲しい、と言われていたことを思い出して慌てて言う。
「……ごめんなさいっ。いま、あの、そっちに行こうと!」
謝って踏み出そうとして、かまいませんよ、とほんの少し苦笑交じりの声がかけられる。彼はしきりを開けただけで部屋には一歩として踏み入れる様子はなかった。ただそこに立ったまま言う。
「そう恐縮しないで下さい。僕は、少なくともこれから貴女と会う人間は、強制したり、貴女を閉じ込めたりはしないのですから」
ぎくりと身体が強張る。
自由になったはずなのに、その言葉でまだ自分のすべてに鎖がからみついていることを自覚する。引きずられ、深い暗闇へ堕ちていきそうな恐怖が一気に襲い掛かってきた。
「霧華さ ―― 」
「キリちゃんっ!!」
どんっ、と立っていた悠貴を押しのけて、なにか小さな塊が勢いよく走りこんできた。
「っ、!」
全身でぶつかってきた塊を受け止めきれずに、わっ、と床に倒れてしまう。
「キリちゃん! キリちゃん! 会いたかったよ、キリちゃん!」
――― キリちゃん。
なんの裏の含みもなくそう自分を呼ぶ声。
なにもない世界で、さっき見た一筋の光そのものだった、声。純粋で優しくて、凍り付いていく心を包み込んでずっと、守ってくれていた温もりのこもる、声。
「……陽菜?」
信じられなくて。
その声を間違うはずがないのに、こんなにも近くで聴けることがとても現実とは思えずに、腰にしがみついたままぎゅっと抱きついている幼い少女を見下ろす。途端、少女は顔をあげた。
淡い薄茶のやわらかい髪、小さな鼻に唇。涙を浮かべている青みがかった瞳に胸がいっぱいになる。
「陽菜!」
「キリちゃん!」
こみあげてくる、熱い感情。
ずっと、会いたかった。唯一、心の支え。
溢れてくる涙が堪えきれずに頬を伝うのを感じながら、強く抱き締め返す。こうして抱き締めることができるなんて思いもしなかった。
「……あの、すみません」
申し訳なさそうな声に、はっと我に返る。
口調とは裏腹に相変わらずの無表情で悠貴が佇んでいた。ほんの少し居心地が悪そうにしているように見える。視線が僅かに揺らいでいることに気づいて、急に恥ずかしさがこみあげてきた。その空気を読んだように、陽菜も身体を離したものの手を繋いでから振り向いた。
「ゴメンね、ゆーくん。キリちゃんが居間にくるまでがまんできなかった」
悪戯っぽく笑って首を傾げる。その言葉に疑問を感じて、陽菜を見下ろした。
「えっ、陽菜。居間で待ってたの? そんな気配なかったけど……」
「へへっ。キリちゃんをびっくりさせようと思って、かくれて待ってたんだー。気配はね……」
子どもが秘密をコッソリ教えてくれるような、楽しげな笑顔を浮かべる陽菜の言葉は途中で別の声に遮られた。
「俺が隠してやったんだって、おい。こんなとこで立ち話じゃなくて、向こう行こうぜ。美味いお菓子と珈琲も淹れたからよ」
悠貴の後ろからヌッと現われたのは、やけに体格の大きい男性だった。窓から入り込んだ日差しが丁度彼に当たって、髪が煌いている。切れ長の目は深緑を思わせる色に染まり、からかうような光を浮かべていた。白いTシャツに膝の擦り切れた薄青のジーパン姿は黒いスーツに身を包む悠貴とは対照的なのに、ふたりが並んでいるととても自然なものに思える。
「隠してやったって……」
「いいから、キリちゃん。あっちいこうよ! まだまだ会わせたいひともいるんだから!」
戸惑う私に構わず、陽菜は明るくそう言って、繋いでる手を引っ張った。その強さに導かれるように頷いてついていく。
部屋を出て廊下に出る。男性を先頭に、悠貴、陽菜と続いていくと、途中で悠貴がトイレとお風呂の場所を説明してくれた。ついでに此処があるマンションの一室だということも。霧華に最初に教えた部屋以外にはあと、三つほど部屋があるらしい。
居間に入ると、太陽の光が全面に注がれているソファが見えた。三人掛け用の淡い紺色のソファに、一人掛けの肘置きつきの椅子、間には硝子テーブルがあって、対面には段上がりで二人ぐらいが寝転べる畳みが敷かれてあった。
適当に座ってください、と言われて、陽菜と一緒に三人掛けのソファに座る。悠貴は一人掛けの椅子に、もう一人は畳みにあぐらをかいて座った。 四人が座ったと同時に、ひとり男の子が台所らしき場所からトレイを持って出てきた。
黒に近い茶髪は短くかりあげられていて、それよりも明るい薄茶の目がじっと私を見ていた。中学生くらいの年齢で、クマの絵柄がついている黄色のエプロン姿がなんとも可愛らしい。ほのぼのとしている彼の印象に見入っていると、トレイからそれぞれマグカップを渡していた彼に差し出された。慌てて受け取って、お礼を言う。少年はぺこり、と頭を下げて、ソファでも畳でもなく、敷いてある長めのふわふわの毛が織り込まれている絨毯に直接座った。
「では、とりあえず全員揃ったので紹介をしましょう」
口火を切って、悠貴が言った。
「まずは珈琲をもってきてくれた彼が、高階(たかしな)明(あきら)くん。年齢は16歳です。趣味は家事一般、特技は簡単に言ってしまうと、犯罪行為でしょうか」
「…………悠貴さん」
あっけらかんとした口調で言う悠貴に不満そうな声をあげるものの、それ以上はなにも言わず、ただ非難めいた視線を悠貴に向けていた。
「すみません。他に言い方はわからなくて。詳しくは実演されるまでのお楽しみということで」
「んで、俺は明の兄で巴(ともえ)。趣味はバイクで特技は、まぁ、パソコンとか機械関係だな。何でも作るのは好きだから、ほしいものがあったら言ってみろ。低価格で作ってやるぜ」
そう言ったのは、畳に座っている男性だった。にやりと楽しげに笑みを浮かべて、手を挙げる。
「ともにぃ、タダじゃないのー?」
陽菜が隣で拗ねるように言った。
「ばぁか。世の中そんな甘くないっての。陽菜ちゃん、タダで何かして欲しけりゃ、いい女になって、俺に媚でも売るんだな。そしたら考えてやるぜ」
「巴……」
呆れたように溜息をつく悠貴に向かって、巴は「冗談、冗談」とパタパタと手を振り豪快に笑った。
「はいはーい! 次はわたしね。キリちゃんの妹の陽菜でーす! 特技は……」
元気よく手を挙げて、自分の紹介をする陽菜に苦笑する。
陽菜とは血は繋がっていない。むしろ、陽菜は白銀当主である零くんやイチくんと母親違いの兄妹になる。正妻の彼らとは違って、愛人の娘である陽菜は立場は弱かったものの、唯一の娘として、当主には可愛がられていて、だからこそ傍にいることが許されていた。まっすぐで明るい陽菜が可愛くて、一緒にいるのが楽しかった。あの頃はまだ外に出ることも許されていたから、ふたりでいろんなところに出掛けては、遊んだ。本当の姉妹のように ――― 4年前、当主が死んでしまって、あのふたりが跡を継ぐまでは。
「……っ、キリちゃん!」
大きな呼びかけと、腕を揺すられて、ハッと我に返る。陽菜が気遣うように見上げてきているのに気づいて、慌てて首を振った。
「大丈夫、なんでもないよ」
「それならいいけど。次はキリちゃんのばんだよ」
まだ疑うように眉を顰めていたけれど、小さく肩を竦めて陽菜が言う。その言葉に周囲を見回すと、全員の目が霧華に集まっていた。多くの視線に晒されることは慣れてなくて、どきどきと胸が高鳴る。
「月花(つきはな)霧華(きりか)で……えっと、」
「キリちゃんの特技は気配を読むことでーす。ちなみに好物は白和えとか白身魚のフライに卵焼きでしょー。あとねー」
「ひっ、陽菜!」
何を言えばいいのかわからずに戸惑っていると、陽菜がはいはーいと手を挙げて代わりとばかりにすらすら喋っていく。口を塞ごうと手を伸ばしかけて、プッとふきだす笑い声が聞こえた。視線を向けると、お腹を抱えて巴が笑っている。かぁっと頬に熱が集まるのを感じた。
「わ、わりぃ。でも、その好みは、まったくもって悠貴と一緒でさ……」
笑い声の合間に、聴こえた言葉に目を瞠る。
「巴……どうにもあなたという人は」
悠貴が呆れたようにはぁっ、と溜息をつくと同時に、ごんっと重い音が聴こえた。いつの間にか巴に近づいていた明が手にしていたトレイで彼の頭を叩いたらしい。
「……ってぇ! こらっ、明っ!」
「悠貴さんを笑うからです」
睨み付ける巴にさらりと返して、明は再び座りなおした。巴の視線なんて欠片も気にすることなく、むしろ満足感に浸っているようで、その様子に今度は思わず霧華がふきだした。笑いがこみあげてくる。
「きりちゃん……」
陽菜が驚いたように名前を呼ぶ。
「ごめん、だって面白くて……」
どうにか笑いを堪えながら言うと、陽菜の顔もパッと明るくなって同じように笑い出した。気がつけば、巴もどこか面白そうに笑っているし、明も嬉しそうに微笑んでいる。悠貴もわずかに頬を緩めているのが見えて、霧華の胸に温かい想いが広がっていく。
(こんなに笑ったの、いつ以来だったかな……。)
まだ自分は笑うことができる、ということを思い出せたことが嬉しかった。
――――自由。
物心ついたときから憧れていたもの。
手に届かないものだと思ってた。どんなに手を伸ばしても、あの空に触ることすらできないんだと。それでも、今はいつかあの空の下で自由に飛びまわれるような、そんな希望が胸に生まれていた。
- by 羽月ゆう