(……声が聞こえる。)
最近はいつも、そう。正確には16歳の誕生日を迎えたその日から。普段からあんまり見ることがなかった夢を見るようになって、だけど、目が覚めても内容は覚えていなかった。それでも声だけははっきりと、耳に残っている。
『……助けて、』
短い言葉は、けれどとても切実に心に響いた。
「なにを助けて欲しいの?」
目が覚めたばかりの身体を上半身だけ起こして、汗ばんだ手の平を見つめながら問いかける。
なぜか目が覚めるといつも汗をびっしょりかいていた。内容は覚えていないけれど、怖い夢じゃないということだけはわかる。ただ、夢を見た後はいつも胸が痛くて、心が悲鳴を上げていた。
「 ―――― 詩亜(しあ)っ! そろそろ起きないと遅刻するわよ?!」
階下から聞こえてきた母親の声に、ハッと我に返る。
机の上に乗っている目覚まし時計を見ると、すでに短針と同時に8時を示していた長針が10分ばかり進んでいた。
「やばいっ!」
慌ててベットから降りて、詩亜はクローゼットを開けた。
学校まで20分。朝食を食べないで、間に合うかどうか ―――― 。
「詩亜、セーフ!」
教室に駆け込んで、慌てて自分の席に向かうと、隣から友達の美香が笑いながら話しかけてきた。
「……ほんと、危ないトコだったよ。朝ごはん食べてたら確実にアウトだった」
「朝食抜いてきたの? なに、珍しい。寝坊?」
苦笑して返すと、驚いたように美香が言う。
今まで始業20分前には席について、授業の準備をしているのが日課だった。鞄の中身を机の中に入れながら、「……夢見が悪くって」とため息まじりに答えた。
(本当に最近、夢見が悪い……。)
身体が重く感じて、動かすことも億劫になる。
教壇で黒板に向かいながら話している先生の声さえ遠くて、集中できなかった。
―――― ふと、視線を感じて、周囲を見回す。
だけど、クラスメイトは数式の書かれた黒板や、それを書き写すためのノートに集中している。
(……気のせい?)
違和感を覚えながらも、授業に集中しようとして、前に向き直る。それでも、心が落ち着いてくれない。
「…詩亜、……詩亜?」
不意に自分を呼ぶ声に、我に返った。
「あ…美香?」
「美香じゃないでしょ。どうしたの、授業、もう終わっちゃったわよ?」
お弁当、食べに行こう、と。
赤いチェックの袋に入ったお弁当箱をぶらぶらと目の前にぶら下げる。当たり前だけど、今の自分とは違って、普段と変わらない美香に自然と笑顔が浮かんだ。
やばいっ、約束を忘れてたっ!
そんな叫びを残して、美香は校舎の中に駆け込んでいった。その姿を苦笑を浮かべながら見送って、かしゃん、と柵に寄り掛かる。
見上げた空はどこまでも青く澄んでいて、さっきまでの憂鬱な気分を取り払ってくれる気がする。優しく吹き付けてくる風が心地よかった。
「……あんたが、シア?」
不意に名前を呼ばれて、空から声がした場所に視線を向ける。
いつの間にか真正面にひとりの少年が立っていた。赤銅の短い髪が、風に揺れている。まっすぐに見つめてくる瞳は金色に染まっていて、詩亜を捕らえたその目つきは鋭かった。
唐突に現れた少年と、その見たことがない色彩に詩亜は言葉を失う。
「ま、顔を見りゃわかることなんだけどね。一応さ。確認しとかないと」
間違ったら大変だ、と少年は苦笑を刻む。
見た目、15,6歳くらいだろうか。きりっとあがった眉、筋の通った鼻に薄い唇も、容貌は整っている。一目見ただけでは近寄りがたいが、少年の身に纏う明るさが人懐こい雰囲気を与えた。詩亜は呆然と瞬きを繰り返す。
「説明とかしたいんだけど、時間ないんだ。俺、まだ未熟だから次元を超えることができるのはほんの短い時間だけ。だからさ、それは向こうに行ってからしてやる。
――― とりあえず、行こう」
詩亜が呆然としているうちに、少年は淡々と自分勝手に喋って、手を差し出した。差し出された手に、詩亜は戸惑いながらようやく口を開く。
「……行こう、って。なに、え、…あなた誰なの?」
ぽりぽり、と少年は差し出している手と反対の手で自分の赤銅の髪をかく。困惑した表情で。
「うん、戸惑うのもわかる。でも、ほんとに時間ないんだ。とりあえず、付き合って欲しいところがある」
だから、ごめん。
声のない言葉で、少年の唇がそう動く。その瞬間、視線を合わせていた少年の金色の目が光を帯びて煌いた。一瞬、太陽の光を受けたためかと思ったけれどすぐに目が逸らせなくなったことに気づいた。
(……えっ、なに…?)
不安に思う間もなく、身体が勝手に動き出す。差し出されていた少年の手へと導かれるように、自分の手の平が重なった。ぎゅっ、と握り締められる。
少年の唇がゆっくりと何かの言葉を紡いだ。その瞬間、二人を眩しい光が包み込んだ。
「詩亜っ! おまたせーっ!」
用事を済ませて戻ってきた美香は、元気良く屋上の扉を開けた。しかし、待たせていたはずの詩亜の姿はどこにもなくて。
「……あれ、詩亜?」
繰り返し名前を呼んでも、静まり返った屋上では、ただ穏やかな風が吹きつけているだけだった。
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