――――こんな世界、無くなってしまえばいいとおもわないか。

　闇の中に引きずり込むような声が、聞こえた。
　感情のない、声。まるでその音さえも、暗闇をまとっているかのようで、闇に沈んでいこうとする意識を保とうと必死に足掻く。けれど足掻こうと手足を動かした先から、さらに闇に絡みつかれる。引き千切っても、すぐに修復してより強固となって縛められた。
（どうして――っ！？）
　混乱と恐怖で、叫び声をあげようと口を開きかけ――
　ハッと目が開いた。
「…………え？」
（呼吸ができる。ってか、声も出る？）
　池の中に引きずり込まれたはずで、水の冷たさも感じた。拘束から逃れるためにあがいていたときは、水の中で息苦しさを覚えていた。だけど更に奥深くに連れて行こうとする闇に、やがて抵抗できなくなって息もできなくなり、――もう死ぬ、と覚悟しながら意識を失ったところまでは思い出せる。それなのに、ぺたぺたと、服を触っても濡れていない。身体のどこにも水に濡れている感触はしなかった。とりあえず身体を起こしてみる。
　さっきまでいた場所には池と、東屋があった。なによりも、アレスとソーマが一緒だったけれど、もちろん彼らの姿は見えない。しかも、周囲は暗闇に包まれていて、唯一、詩亜がいま座り込んでいる床だけが冷たく、現実感を与えてくる。
「どこ、ここ？」
　思わず発した自分の声はあまりにも頼りなく、闇の中に消えていく。
　不安と恐怖に呑まれそうになる気持ちを抑えながら、どうにか立ち上がる。歩き出そうにも、一寸先も闇。まるで、自分しか存在していないような静けさと暗闇に、寒気を覚えた。両腕でさすって、震えそうになる身体に力を入れる。
　ふと、胸もとのペンダントが淡い光を放っていることに気づいた。石のみを包み込む明かりはぼんやりとしていて今にも消えてしまいそうだけれど、ないよりはマシかと、鎖をはずして手に持ち、足元を照らす。立っている床が灰色に染まっていることがわかった。硬い感触を踏みしめるように一歩進む。特に消えたり崩れたりする気配もなく、ほっと息を吐き出してとりあえず足を進めた。
『――捕まったら、闇の国に連れて行かれるぜ』
　ソーマが言った言葉が脳裏に過ぎる。
　もしそうなら、此処が闇の国――。
　陽の国にあった、光のあたたかさ。月の国で感じた光の優しさ。それに比べて、光のないこの闇の国はあまりにも冷たくて。
　二つの国でも、宮殿を飾る絵画や技巧を凝らした置き物、細部にまで施された彫刻の数々が廊下を少し歩くだけでも楽しませてくれたのに、暗闇に包まれているここには、石畳の廊下、天井を支える石柱くらいしかない。
（こんなところに誰か住んでいるの？）
　それさえも信じられなくて、困惑する。
　カツン、と石畳を進む音だけがやけに耳に響いた。
　不意に進む先を遮られて、足を止める。手に持っていた光を前にかざすと、それが黒塗りされた重厚な扉であることに気づいた。周囲を見回しても暗闇ばかりで、後ろは進んできた道。他に扉はなかったことを考えると、この扉を開けるしかない。
「行くしかないわよね……」
　独り呟いて、手に持っている石をぎゅっと握り締める。それに反応するように、石がほわりと明かりを増したように見え、暗闇の中で恐怖に竦みそうになっていた心に勇気がわきあがってくる。
　思い切って取っ手をつかんで、押し開けた。
　ふわり、と湿った風が通り過ぎていく。その感触に、思わず目を閉じる。

―――― こんな世界は無くなってしまえばいいと思わないか。

　闇そのものを纏っているひとだった。
　姉様が言ったように、怖い印象を受けるというよりも、見ていると寂しさを感じた。紫闇の長い髪、深淵を湛える瞳。簡素な黒いローブを身につけ、唯一闇の王らしく漆黒の石を煌く金で飾った指輪のみを嵌めた指先を組んでいた。
　太陽もない。月も浮かばない、ただ暗闇が続く空に物憂げな眼差しを注ぎながら、彼は言った。
　その横顔は感情を読み取れるほどのものは浮かんでいないものの、寂しげだと感じたのは、彼の生い立ちを聞いてしまったせいかもしれない。闇の力を強く持つ彼の存在に畏怖を抱いた前の闇の国王と妃はその能力が目覚める前に殺そうとした。だが、不幸にもそれが切欠で闇の力が目覚め、返り討ちにあったという。それ以来、闇の国の者たちは彼に、彼の力に怯えるように従っている。
　月の国も、陽の国もだれもが温かさと優しさを見失わずに暮らしているし、些末な喧嘩は日常あっても、それなりに仲良く過ごしている。特にシアには愛してくれる両親も姉のリアもいるし、婚約者となったアレスだって幼い頃から傍にいてくれた。それを思えば、闇の王が常に孤独だったことに胸が痛む。
　この世界を司る三国は互いの存在が不可欠で、陽と月、闇の国の交流は度々行なわれていたけれど、シアが闇の王に会ったのは、彼が成人して正式に闇の国の王となった式典で、アレスもそのときが初めての顔合わせだったと言っていた。もっと小さい頃から知っていれば、アレスとリアと４人で仲良く遊べたのに。そんな思いがよぎる。恐らく、前の闇の王は彼を後継ぎとして認めたくなかったから正式に紹介をしなかったのかもしれない。
（――――それほどに、大きな闇の力には畏怖すべきものがあるのは確かだがな。）
　父が言っていた言葉がふと、脳裏に浮かぶ。
　けれど、彼はその力を使う様子もなく、適切に闇の国を治め、陽と月の国、それぞれの交流も怠ることなく行い、王としての立場を確立しているという。でも、必要以上には踏み込まない姿勢でいるとも、アレスが言っていた。幾らかは闇の国王が年上とはいえ、近しい年齢でありながら、交流の場でもあまりアレスと会話をもたせることはしない。それは月の国に来ても同じで、三国の交流会でもひとりでいる姿を見かけることが多かった。リアにいたっては、その孤独な雰囲気は近づくことさえ拒絶していて、怖いとさえ口にした。姉が言うようにシアは怖いとは思えず、ただ寂しさを纏っているように見えた。ずっとあの闇の国に独りでいたわけだし、きっと人と付き合うことが不器用なのだ、と。そう思った。好きで独りでいたいと思う人はいない。その気持ちは強がりと誰かと付き合うことに対しての不安から生じてくるものだ。その証拠に、というわけでもないけれど、彼は話せば応じてくれるし、アドバイスを求めればアレスよりも的確で鋭い意見をくれる。時折、愚痴だって零せば、黙って聞いてくれたりもする。口数は少ないけれど、シアにとっては付き合うにはそれで十分だった。
　彼がそれを口にしたのは月の国としての闇の国訪問時だった。シアはアレスとの婚約を自分の口から伝えたくて、姉に便乗して一緒に来る予定だったけれど、姉が風邪を召したために、そのときの闇の国の訪問はひとりだった。勿論、身を護るための臣下は幾人かついているし、信頼の置ける侍女も傍に控えている。
　明日の朝には月の国に戻る、というその夜のディナーの席で、ふと闇の国の王が人払いを行なった。それに倣って、シアも侍女と臣下を下がらせる。不満そうな態度を感じ取ったものの、彼女には闇の王がそう無体なことを強いるような人柄ではないことは、これまでの親交でわかっていた。
　ふたりっきりになったところで、おもむろに最初に零された彼の言葉に、目を瞠る。
　どうして、と問いかけると、彼は答えないまま、ただ寂しげに闇そのものの瞳を細めた。その姿に胸が痛くなって、首を振る。
『あなたにも、私にも、守らなきゃならないものがあるわ。だから、世界がなくなってしまえばいいなんて思わない。大切な人たちが生きているこの世界を、そんなふうに思えたりしないわよ』
『我には、いない。守りたいものも、そうまで思う大切なやつも』
　きっぱりと切り捨てられる言葉は、鋭く胸に突き刺さる。
　初めて吐露される弱音。だれも、踏み入ろうとしなかった彼の本音はこんなにも重く、暗い。救ってあげられたらいいのに、とその想いが傲慢なものであっても、願わずにはいられなくて。
『見つければいいじゃない。もう少し、誰かと話して、一緒に出掛けたりして。闇の国に留まっている理由はないでしょ？』
『――簡単に、言うんだな』
　苦笑混じりの声は悲しみを帯びていて、吐き捨てるように言われた言葉に苛立ちがわきあがる。
　誰かと信頼を築くことに簡単な方法なんてない。自分で歩いて、進んで、手を伸ばさなければ誰も気づいてなんてくれない。蹲って動かないまま、誰かの手を望むのは単なる甘えに過ぎない。何かを守るための手も賢さも地位もあるのに、求めもしないで誰もいないというのは傲慢だ。
『もし、おまえがほしいといったら、どうする？』
　ハッと彼に視線を向けた。見つめてくる瞳は暗く、その闇に吸い込まれそうになる。何の感情の波もなく、ただまっすぐに見つめてくる目。
　シア、と優しく呼んでくれる彼の目が過ぎる。あの青い目に浮かんでいるのはいつも優しさの中に隠れた彼の熱。愛してると囁いてくれる声。甘い熱は、いつだってシアの心を包み込んで、愛することの喜びを教えてくれる。だから、わかる。
『冗談はやめて。あなたは私を好きなんかじゃないわ』
『それなら、おまえは、あの陽の王子が好きなのか？』
　何気なさを装った問いかけ。彼のすべては闇のように深く、いつも掴みづらかった。普段ならそれでも慎重にはなっていたはずなのに、アレスにプロポーズをされた直後ということもあって、浮かれていたところもあったから。だからこそ、それが切欠になると気づかないまま、笑って口にしてしまった。
『もちろんよ。だから、彼とは結婚するの。あなたも招待するから、式には出席してね。三国の王たちに祝福されれば幸せだわ』
　私の言葉に急に黙り込んだ彼が、頭の中でなにを考えているのか、そのときの私にはわからなかった。

　 「――ようこそ、月の姫」
　かけられた声に、大きく息を呑む。
　ハッと目を開けると広間の段上には玉座があり、そこにはひとりの男性が表情もなくこちらを見ながら座っていた。
　まっすぐに伸びる紫闇の髪。表情と同じ、何の感情も浮かんでいない深淵そのものを湛えた瞳。美しい顔はアレスとは裏腹に闇そのものを含んでいるように感じた。纏っている衣装も黒い簡素なローブで、発せられた声は闇へと引きずり込むような妖しさがこもっている。
　この扉を開け放った瞬間に、見えた記憶の残像。それを信じるなら、彼は闇の国の王だ。
　震えそうになる足に力を込めて、詩亜は彼を見つめた。
　この世界の戦いを始めた元凶。月の国を侵略して、国王を殺害しリア王女を閉じ込め、すべてを闇に包んだ張本人。
「以前の姿と随分変わってしまったようだな。やわらかな光を紡いだ髪も、宝石のごとく澄んだ美しい瞳も、すべてが闇に染まったようだ」
「――――っ！」
　言葉がざくりと鋭く胸に突き刺さる。
　そんなことっ、だって、それは――。

「私はシアじゃないもの！」
　こみ上げてくる熱い塊を押さえ込むように叫ぶ。

　ふたりしかいない広い部屋で、その声はやけに虚しく響いた。

「そう。彼女じゃない。だが、彼女の魂を持っている。いわば、記憶をその身体に宿しているということだ」
　おもむろに玉座から立ち上がった闇の王が足を踏み出し、近づいてくる。一歩ずつ詰められる距離が恐ろしくて、後ずさる。けれどすぐに背中が扉に当たってしまった。
「月の国の伝承をまさか王女ふたりで分け合っているとは思わなかった。もっとも、シア王女が死んでしまうことも、思惑通りというわけでもなかったが」
「どういう――――」
　手を伸ばせば届くギリギリの距離で、闇の王は歩みを止めた。問いかけようとした声は、深い闇色の目に見つめられて言葉を見失う。
　ぐらりと視界が揺れ、身体が崩れ落ちるような感覚があった。