「ねぇ、ねぇ」
「なんだよ? 女官達の住居はもうすぐだ」
再び歩き始めて、今度は宮殿の廊下から繋がる外周への橋を渡っていくソーマの背中に話しかける。それにしても、広い宮殿。しかも目にする外庭はすべて、美しい花々や緑に溢れている。今、渡っている橋を取り巻く環境も溜息が零れ落ちるほどキレイだった。透き通る水が溜まっている池。バランスよく浮かぶ草。咲き誇る睡蓮の花。
向こうの世界では絵画でしか見たことないような、風景。
そう思った瞬間、じくりと胸が痛んだ。それを誤魔化すように、軽い口調で言う。
「そうじゃなくて。ちょちょいっと、私を向こうの世界に戻せないの?」
さっき言われたことを忘れたわけじゃない。だけど、負担が丸一日寝ているだけですむのなら、お願いだから戻して欲しい、と我侭にも思ってしまう。
けれど、返ってきたのは呆れを含んだ、重い溜息。
「……簡単に言うなよ。そりゃぁ、連れてきたのはこっちの都合だけど、それでも世界渡りには準備が必要で、その準備には長い時間がかかる。タイミングを掴むのにどれだけ ―― 」
そこまで口にして、不意にハッと我に返ったようにソーマは口を噤んだ。
「どれだけ?」
「あ、あそこ。ほら。シエラっ!」
まるで誤魔化すかのように声を上げて手を振るソーマに疑問を抱きながらも、彼が見ている方向が気にかかって視線を辿っていく。追いかけた先で、ひとりのキレイな女性がソーマに応えるように軽く手を挙げて、立っていた。
「お待ちしておりました、ソーマ様」
彼女のもとまで辿り着くと、にっこりと微笑んで迎えてくれた。ソーマに向かって優雅に一礼すると、顔をあげた彼女の視線は私に注がれた。途端に、その柔らかな碧色の瞳が輝きに煌く。
「貴女がシア様ですね! お会いしたかったですわっ!」
両手を取られてぎゅっと握り締められる。その勢いに押されて、困惑した。勢いだけじゃない。豊かに波打つ眩いほどの金髪、色白い肌、ぱっちりとした瞳と縁取る長い睫、艶やかな唇、目を見張るような美貌に、間近で迫られて圧倒される。
「私は、シエラ=セルファレスと申します。今日から貴女付きの女官としてお世話をさせて頂きますので、よろしくお願いします」
「えっ?!」
唐突な申し出に驚いて声を上げる。
こんな美人が女官って。有り得ないっ。しかも私付きってどういうことっ?!
「じゃあ、シエラ。後は頼んだぜ。俺は訓練所に戻ってるから」
「ソ、ソーマ?!」
戸惑っている間に、ソーマはさらりとシエラにそう言ってから踵を返すと、止める間もなく、足早に走り去って行った。
その後ろ姿を呆然と見送っていると、がしりっと腕をつかまれた。びくっと身体が震える。恐る恐る振り向くと、シエラがにっこりと微笑んでいた。
「さぁ、まずは着替えをしないといけませんわね。その服はこちらでは目立ちますので」
視線を全身に感じて、ハッと我に返る。
彼女の服装を見れば、ドレスではなく、すらりと身体の線に沿った、裾の長いワンピースのようなもので、深い青色に細やかな草花の刺繍が施してある。その上に、白銀のカーディガンのようなものを羽織り、前は瞳の色と同じ、碧い宝石が煌く留め具がついていた。全体的には質素に見えるけれど、華やかな美貌が際立つから、余計にすっきりとしていて、センスよく見える。
私の視線に気づいたシエラは、不思議そうに首を傾げた。慌てて、首を振る。
「あっ、いえ。こっちの世界ではどんな服装なのかなって思って……」
そう言うと、納得したように頷かれた。
「ああ、我が国の服装は、大抵はこのように上下繋がった裾の長いスカートですわ。それは女官でも変わりありません。女官の場合、色は皆同じ青いものを着ております。ただ、王室の女性はどこかしらに必ず金色を、貴族の女性は装飾に自らの瞳と同じものを身につけることが習わしになっています」
それから、シエラは背後にある建物へと踵を返した。こちらへ、と言われて彼女が歩いていく後をついていく。
「此処はこの宮殿で働く女官達が住んでいる場所です。朝は日が昇ると同時に、夜は日が沈むまで仕事をしていて、それ以降は、それぞれお付の女官が主人の用事を済ませます。お付の女官は主人の部屋の隣に部屋を与えられておりますから、用事があるときはいつでも呼べますわ」
どうぞ、呼んで下さいね、と言われて困惑した。そんなことを言われても、主人とか女官とか、到底現実離れした言葉にどう答えていいかわからない。
「とりあえず、この建物の一階に針子用の仕事場がありますから、そこでサイズを測らせて頂いて、それから宮殿のシア様のお部屋で夕食までこの世界と、陽の国の説明を致しますね」
シエラの言葉を聞きながら、ふと疑問に思ったことを口にする。
「そういえば、さっき。宮殿内では女官を見かけなかったけど、どうして?」
何気ない問いかけのはずだったのに、それまで明るさを保っていた彼女は、重苦しい溜息をついて、物憂げに言った。
「……今は、この陽の国は危険な立場に追いやられているのです」
「それって、ソーマが言ってた世界のバランスがどうこうっていう話よね?」
ええ、と頷いて、シエラは先を続ける。
「そのために、アレス様は宮殿に必要最低限の人間だけを置いて、他の者たちは皆、家で待機しているようにと休暇を与えました。どうなるかわからない。だからこそ、今は宮殿に仕えるよりも大切な者たちの傍にいてほしいと」
「……そうなんだ」
アレスの姿が脳裏に浮かぶ。王子様のような容貌に加え、さっき訓練所で会った兵士たちの会話やシエラの言葉から性格も良く、慕われていることがわかる。
「アレス様は芯が強く、お優しい方ですからね。月の国が滅び、絶望なさっておられるにも関わらず、弱音を吐くこともなく、闇の国に立ち向かっています。王子だから仕方ないと思われるところもおありでしょうが、我々にはそのお姿が痛々しくて ―― 」
「絶望?」
あまりにその言葉と、優雅に微笑んでいたあの姿が結びつかなくて、思わず問いかけると、シエラは怪訝な顔つきで訊いてきた。
「まだ、お聞きになっておりませんか?」
何を?
言葉に出さずに、視線を合わせると、何か大切なことを言おうとする前触れのように、シエラはふっと瞼を伏せた。すぐに目を開けて、柔らかい笑みを浮かべる。それはどこか悲しげな含みがあるように見えた。
「月の国の王女は、アレス様の婚約者でした」
『会いたかった! ……ずっと、ずっと、君に。会いたかった!』
最初に会ったときに、そう言って抱き締めてきたアレスの姿が浮かんだ。
私が彼らの言うように、月の国の王女の生まれ変わりだとするなら、だったら、アレスは ―― 私の婚約者だったってこと?!
そういえば、ソーマもアレスの女だとかなんとか言ってたし!
「有り得ないっ!」
思わず、そう叫んでいた。
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