05. 婚約者
 ――― そうだよ。
 夕食の席で、アレスとともに食事をしている最中に、シエラから聞いた話を持ち出すと、彼はあっさりと頷いた。それから、優しい眼差しを向けられて、胸がどきりと高鳴る。
「月の国の王女は僕の婚約者だった。けど、五年前に、亡くなったんだ」
「五年前にって、それじゃあ、話が合わないわっ。私は十六歳なのよ?」
「時間軸が違うんだよ。シア。君の世界と、この世界では」
 苦笑しながら、そう答えるアレスの言葉に、理解できないものを感じながらも、そういうものかもしれないと納得してしまう。世界が違うなら、時間にズレが生じるのも有りかも。別世界にいること自体信じられない出来事で、他の違いがあってもおかしくないかもしれない。そんなふうにほとんど無理矢理思い込むことにした。そうじゃないと頭が混乱する。

「……まぁ、それは置いておくとしても。私はどうしたらいいの?」
 ただひたすらに元の世界に帰して欲しいと言った所で、心の底から疑問をぶつけられるのは、最初の押し問答で懲りていた。だったら、彼らが求めていることを訊くことが一番だと思った。

 アレスの青い目がひたりと私を見据える。真剣な眼差しを注がれて、緊張感が生まれる。美形に見つめられるなんて機会、生まれて初めてで、嬉しいとか恥ずかしいとか思うよりも、戸惑いが大きい。それでもなんとか逸らさずに見返していると、彼はゆっくりと口を開いた。
「……月の国の伝承を、思い出して欲しい」
 伝承 ―― ?
 聞き慣れない言葉に首を傾げると、更に説明を続けてくれた。
「闇の国によって滅ぼされた月の国の力を取り戻すには、代々月の国王家に伝わる伝承に隠された呪詞(のりと)が必要になるんだ。それは口伝されるから、王家の者しか知らない」
「それがあれば、月の国の力が取り戻せて、この世界のバランスが保たれるの?」
 頷いたアレスに、状況は理解できたけど、でも。とてもじゃないけど、正気とは思えなかった。
「けどっ、私は月の国の王女じゃないわっ! そんなこと! 知ってるはずないしっ! 思い出せなんてムリに決まって ――― 」

「君は、月の国の王女だよ。シア=ティルム=ムーン。それは、絶対そうなんだ」

 断言される言葉に、思わず息を呑む。アレスの顔や口調が真剣すぎて、反発することもできない。馬鹿馬鹿しいと呆れることも。ただ呆然とアレスを見返していると、彼は真剣な空気を壊すようにふっと表情を緩めて、微笑みを浮かべた。
「ごめん。ただ僕たちは、何年も前からずっと、彼女の魂を探し続けて、慎重を重ねてきた。その結果、やっと見つけて。更に別世界だったから、連れて来るためにかなりの準備をかけたんだ。だから、簡単に否定しないでほしい」
「けど……」
「ひょっとしたら。もしかしたら、自分は月の国の王女の生まれ変わりかもしれない。そんな些細な気持ちからでいいんだ。そう、思ってみてくれないか?」
 懇願するような口調は、とても優しくて、胸に響いてくる。思うくらいなら。―― それくらいならいいかも、と思いかけて、ハッと我に返った。慌てて首を振る。
「だからって、前世の記憶を思い出せなんて……」
「もう。君しかいないんだ」
 さっきより強い口調。真摯な瞳に、拒絶しようとしていた言葉が詰まる。まっすぐ見つめてくる青い瞳に悲しげな影が過ぎるのを見えた。どうすればいいかわからなくなって、とりあえず手元に置いてある水の入ったグラスを取って口につける。喉に流し込んで、からからに渇いていたことに初めて気づいた。

「……私は」
 言葉が続かなくて、唇を噛み締める。目を閉じて、胸の内を探るために渦巻く不安や焦りを抑えた。今のこの世界の状況を聞かなかったことにして、逃げるのは容易い ―― けど。ふと、昼間見たソーマの剣技が脳裏に浮かんだ。一振りの刃の閃光。まるで何かを導いてくれているかのようで。

「シア?」
「できるかは責任持たないけど、試してみるわ。あなたが言うように、ちょっと思うくらいなら ―― 」
 まっすぐアレスを見つめて言う。彼の青い目はたちまち喜びに煌いて、これまで浮かべていたような微笑みとか何かを隠そうとするような胡散臭い笑顔じゃなく、純粋に喜んでいることが伝わってくる笑みを見せてくれた。
「本当に思い出せるかはわからないわよっ?」
「いいんだ。前向きに考えてもらえることが大切なんだから」
 念を押すように言うと、アレスは鷹揚に頷いて、満足そうな口調で返ってきた。
「あなたは ―― 」
「アレス」
 ふと言いかけた言葉は遮られて、その意図がわからずに彼を見る。熱がこもった目を向けられていることに気づいた。その熱に当てられたように、頬が熱くなるのを感じる。きっと顔が真っ赤になってる。
「ア……アレス様?」
 彼がこの国の王子だと思い出して、そう呼びかけると、違うよ、と優しく拒絶された。確かに、自分はこの世界の人間じゃなければ、国の民でもないし、彼に仕える者でもないから、「サマ」付けは必要ないかもしれない。じゃあ ――
「アレスさん?」
「アレス、呼び捨てでかまわない」
「でもっ!」
「ちょっとは思ってくれるってさっき約束したばかりだろう。シアは僕の婚約者だったから、そう呼び捨ててくれないと」
 ほとんど初対面の人間を ―― それも王子様を呼び捨てでなんて慣れないけれど、そう言われてしまえば、従うしかなくなる。
「ア、アレス……?」
「うん。どうしたの?」
 本当に嬉しそうに微笑んで見つめてくる瞳には、愛情が込められていることがわかる。それに気づいた途端、恥ずかしくなって、どきどきと胸が激しく鳴る。それを誤魔化すために、慌てて口を開いた。
「あっ、あのねっ、それで、これから先は ―― ?」
 思わず問いかけた言葉に、アレスの顔がふっと深刻なものに変わった。考え込むように、黙り込む。それまで柔らかかった空気がたちまち緊張感に包まれた。
「……しばらくは待ってて。戦況次第で、なんとか君を月の国まで連れて行くから」
「月の国に?」
 滅びてしまったという、国。
 その名前の余韻に、ほんの少し ―― 胸の奥が騒がしくなる。懐かしい響き。だけど、同時に悲しみがあるような、そんな感情が疼く。
「生まれた国に行けば、なにか思い出すかもしれないし。思い出さなくても、なにかわかるかもしれない」
 確信のない期待。希望 ―― それに縋るしかないほど、この世界のバランスは壊れかけている。昼間、シエラにそう教わった。陽の国と闇の国の戦争 ―― この国を守るためのそれでさえ、世界を破綻へと向かわせるものだと。けれど、戦わなければ、闇に支配された世界で陽の国の住人は生きることもできない。
「一ヶ月あれば、突破口が開けると思うから、それまでは ―― 」
「そんなに?」
 言ってから、しまったと思った。戦争がどんなものかはわからないけれど、軽々しく言っていい言葉じゃないと後悔した。もっと早く連れて行けるなら、そうしてくれているに決まっているから。
「あっ、違う。あのっ、じゃあ、その、私の生まれ変わりだって言う月の国の王女の写真とかないの?」
 失言を上塗りするために、発した言葉に、アレスは首を傾げる。
「写真 ―― ?」
 そこでハッと我に返る。この世界にはそんなものないのかもしれない。なにせ、時間さえ、太陽を見ていたくらいだし ―― 。そう考えて、言い直した。
「王女の姿がわかる……そう、肖像画とか!」
 絵なら、王宮にも彼ら王室の姿が描かれたものがあった。それを思い出して言うと、アレスは納得したように頷いた。
「ああ、それなら、僕の私室にあるよ。そうだね。見せよう」
 ついてきて、と立ち上がる。

 彼の後に続いて、私室だという場所に足を踏み入れた。流石に国の王子様の部屋だけあって、広くて一際豪奢だった。置かれている調度品ひとつとっても、一目で高価な品だとわかる。
「こっちだよ」
 部屋の様子に躊躇っていると、アレスは部屋の中を横切って、更に奥に続く扉に向かっていった。慌ててついていく。
「ここは、王子様の仕事場兼見せ掛け部屋。こっちが本当の私室」
 まるで考えていたことを見透かすみたいに、くすりと笑って言いながら、扉を開ける。その部屋に進んで、驚いた。違和感を覚えるほど質素な部屋で、本が詰め込まれた棚がふたつと、簡易な机に椅子、一人半くらいの人間が眠れる大きさのベッドがあるだけ。王子様のベッドといえば、天蓋付の大きなものだと思っていたのに、与えられた私の部屋にあるものよりも、小さく簡素。部屋に入って気づいたけれど、窓際には揺り椅子がひとつ置かれてあった。日当たりの良いなかで座っていたら、居眠りしそう。そんなことを思っていると、アレスに促された。
「シア。彼女が、月の国の王女だ」
 はっと、彼が指差す方向に視線を向ける。壁にかかっている一枚の絵に釘付けになった。身体の上半身しか描かれていないけれど、キレイな女性が微笑んでいた。月の光を紡いだような蜂蜜色に煌く髪。肩より長い髪は先端がふわふわと巻かれている。髪よりも濃い、琥珀に近い色の澄んだ瞳。薄く艶やかに色づいた唇。あまりにも、私とは対照的過ぎて、戸惑う。
 私の黒い髪はまっすぐ肩まであって、瞳も同じ黒。じっと鏡を見た限りでは睫も長くはないし、鼻の高さからなにもかも、顔の造作の全ては平均的。あまりにも違いすぎて、せっかくほんの少しだけでも、と思い込もうとした気持ちが萎えていく。

「 ―― 彼女の絵はこれ一枚しか取っていないんだ」
 ふと、寂しげな声が聞こえてきて、隣に立っているアレスに視線を向ける。肖像画を ―― 絵の王女を見る横顔は、さっきまでの明るさを失って、悲しげな影が差し込んでいた。
「他にもあったの……?」
「全部、処分した」

 ――― 月の国が滅び、絶望なさっておられるにも関わらず。
 シエラの言葉が脳裏に浮かんだ。

 婚約者が、大事なひとを失った彼の気持ちが伝わってくるような気がした。胸の奥がずくりと疼く。処分した、と口にしながら苦しみを誤魔化すように微笑むアレスを抱き締めたくなった。伸ばしかけた自分の手に気づいて、慌てて握り締める。

「シア?」
 ハッと息を呑んで、視線を肖像画に戻した。
「どっ、どんな女性だったの?」
 ほとんど無意識だった行動に動揺しながら、そう口にする。
「そうだね。……どんなときも、前向きな姿勢で在り続けた。いつだって、前向きで明るくて。本当に、暗闇を照らす月明かりのような、女性だった」
 返ってきた口調には懐かしさと、彼女への愛おしさが溢れていて、今もなお、焦がれている気持ちが伝わってきた。けれど、なぜか違和感を覚える。アレスの気持ちが痛いほどに伝わってきて、それはざわりと胸を騒がせる。その一方で、客観的にそれを可哀想だと感じる自分もいた。まるで、ふたりの自分がいるみたいで、居心地が悪い。

「さて。今日は疲れただろう。そろそろ休もう」
 感傷を振り払うように、明るい口調でアレスが言う。その顔にはさっきまでの感情は欠片も浮かんでおらず、すっかり消え去っていつもの王子様然とした微笑みがあった。
「アレス……」
「夜以外なら、いつでもこの絵を見に来てもいいよ。最近は僕も執務室で休むことが多いからね。遠慮しないでいい」
 その青い瞳には期待に満ちた光が煌いていて、とても必要ないと首を振る気にはなれなかった。それに ―― 。
 行こう、と促すアレスの後に続こうとしてもう一度だけ肖像画に視線を向ける。優しく微笑んでいるキレイな顔が、心のどこかで引っ掛かった。


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