あれは婚約式のとき ――― 。
神殿内に置かれている月の国の象徴、ティアナ像の前で僕とシアは婚約の誓いを行なう予定だったんだ。僕の側近達、そして月の国の王や王妃、臣下。全員が揃っていた。先に僕が像の前で待っていると、扉からシアが現われて姿を見せた。
「普段のシアはね、街に飛び出しては走り回ったり国民と語り合ったり、活発で明るくて、その気持ちを汲み取っては政治に意見を挟むような優しさと賢さもあった。そんな彼女に惹かれたんだけど、そのときの姿はまさにお姫様で ―― 」
自分の婚約者だと忘れてしまうほどに、見惚れてしまってたんだ。
今もまだ脳裏に刻まれているかのように、アレスはそう言って懐かしげに目を細める。
私はアレスの話を聴きながら、肖像画のシア王女を見つめる。とびっきり着飾った姿 ―― 夢の中で話していた二人の会話を思い出す。こんな美人が着飾ったら、確かに女性の自分でも見惚れるかもしれない。
「神殿中が彼女の美しさに、どこか浮かれていたんだろうな」
後悔が滲む口調で、アレスが言う。
誰も、想像すらしていなかった、とその瞳には怒りに煌く光が浮かんでいるのに、表情はとても悲しげだった。
「シアが僕の傍まできたときだった。急に第一王女が短剣を取り出して、父であるはずの王に向かった」
告げられた内容に、驚く。
(シア王女に、ではなくて王に……?)
だったら、どうして。
その疑問に答えるようにアレスは先を続けた。
「誰も身動き一つできなかった。まさか、第一王女がそんなことをするなんて思いもしなかったから。呆然となっていた。だけど、その刃が王にかかる前に、二人の間に ――― シアが飛び込んだんだ」
――― ぐさり、
剣が身体に刺さる音が、その場面を見ているわけでもないのに聴こえてくる。鋭い胸の痛み。けれど、気にかかるのは自分の痛みよりも、目の前で虚ろな瞳をしている、リア。
『お…、ねえ……さま……』
どうか、正気に戻って。
いつものように優しく微笑んで。毅然とした態度で凛とした瞳を持っている、それが月の国の女王となるべき証。その志を常に胸に抱えているリア。お姉さま。私の大好きな ―― 。
訴える気持ちが届いたのか、周囲の騒ぎ声に我に返ったのか、リアの瞳に徐々に光が戻ってくる。そのことにほっと胸を撫で下ろした。だけど気が緩んだその瞬間、胸を貫かれた痛みが押し寄せてくる。
『シ、シア…………。いやぁぁ ――――― っ!!!』
狂ったようなリアの悲鳴が耳に響く。
(大丈夫よ……。)
何も心配いらない。悪いのは、お姉さまじゃない。そう言ってあげたかった。そう言って、抱き締めたかった。けれど、もう口を開くことも、腕を伸ばすこともできなくて。
「シアっ!!」
崩れ落ちる身体を力強い腕に抱き締められる。
視線を向けて、アレスが困惑した表情で見つめているのがわかった。まだ、何が起こったのか理解できていない顔。戸惑ったように揺れる、青い目にうつる自分がこんなときでも嬉しくて、思わず微笑んだ。それさえ強張って、もうそんなに時間がないことに気づいて悲しくなった。
『 ―― ごめんね、アレス』
身体中に僅かに残る力を振り絞って、そう伝える。
ごめんね、ずっと一緒にいるって約束したのに。一緒に陽の国を、この世界を守っていこうって言ったのに。
『なにを、謝る……?』
向けられた言葉に苦笑する。賢いアレスにわからないわけがないのに。それでも気持ちはわかる。立場が反対なら、私だって今この目の前に起こったことは信じられないし、大切な人を失う、その事実を受け入れられるわけがない。
( ――― だけど。)
アレスは王子様だ。
現実から目を逸らすのは許されない。そしてその強さこそが、私の惹かれた、あなたの好きなところのひとつ。
『っ、私たち……いつか、また、出会える……か、ら』
『シア?! 何を言ってるんだ!』
強い口調とは裏腹に不安げな眼差しと抱き締める腕が小さく震えていることに気づいて、貫かれた痛みとは違う鈍い痛みが胸に走る。
力が抜けていくのを感じながら、なんとか腕を伸ばして、その頬に手の平をあてる。すぐに落ちていこうとする手をアレスが掴んでそのまま頬を摺り寄せてくる。冷たくなっていく手の平から、温もりを分け与えようとするかのように。
『探して、アレス……私を ―――― お願い、』
『君は此処にいる! 探さなくても、ずっと僕の傍にっ!』
『アレス、お願い ――― 』
ふと、彼の後ろに佇むティアナ像の姿を見つける。
(どうか、月の女神、ティアナ様 ―― 。この国 ―― 世界をお守り下さい。大切な人たちを守れる力を、私に ―― 。)
『シア! ダメだ! 僕を見るんだ! シア!』
アレスの声が聞こえる。
もっと、聞いていたいのに ―― その声は少しづつ遠ざかっていって、もう一度アレスの姿が見たいのに、瞼を開ける力さえ ―― 。
「シア!」
ハッと反射的に瞼を開けると、容易くそれは出来て、心配げに自分を覗き込んでいる青い目に気づいた。
「 ―― アレス?」
名前を呼ぶと、彼はほっと息をついた。
「私 ―― ……?」
戸惑いながら自分のいる場所を見回す。シア王女の肖像画の前に立って見ていたはずなのに、さっきまでアレスが寝ていた揺り椅子に座らされていた。その横で膝をついてじっと見つめてきているアレスは眉を顰めて、苦しげな表情をしている。どうしてそんな顔をしているのかわからなくて、ただそれが目を開ける寸前まで見ていた彼の表情そのままで、胸が苦しくなった。そっと、手を伸ばして頬に触れる。
「シアの話をしていたら、急に意識を失ったんだ。声をかけても返事はないし、もう少ししても反応が無かったら医師を呼ぶところだった」
彼の頬に触れていた手が掴まれる。込められる力の強さに困惑しながら、ふとその手が小さく震えていることに気づいて、アレスがどれだけ心配したか、不安になったか伝わってきた。
少しでも安心させたくて、ヘイキ、と微笑んでみせる。
「アレスの話に感化されたのかな。そのときのことが浮かんできて ――― 」
最初に夢を見たときと同じ。
感覚すべてがシア王女と重なっていた。痛みも、苦しみも ―― 悲しみも、そのとき恐らくシア王女が感じていたものが直接入り込んできた。
「ごめん。君につらいことを思い出させて……」
まるで祈るように握っている手を両手で掴んで自らの額に押し当て、苦しげに言うアレスの言葉に、ふと気づいた。
「……もしかして。リア王女の話をしなかったのは私のため?」
びくりと手が反応する。顔をあげたアレスの瞳には憐れむような光が浮かんでいた。
「君たちはとても仲が良かったからね。月の伝承は必要だから思い出して欲しかったけど、双子の姉に殺されたことはできれば忘れたままでとも思ってた」
「アレス……」
「君の心が心配だった。いきなり異世界に連れてこられて、そんな話をされたら壊れるんじゃないかって」
まっすぐ見つめてくる青い瞳には嘘偽りのない真摯な光が宿っていて、どきりと胸が高鳴った。握られている手を意識してしまって、頬までが熱くなる。
「あっ、あの、ね! 私はっ、そんなに弱くないよ!」
確かに驚きはしたし、シア王女と重なって記憶が浮かんできたときには悲しみと痛みを覚えたけれど、アレスが心配するように心が壊れるほど揺さぶられることもなかった。ただ、そういう事実があったんだという認識をしただけ。それが前世のことだからか、元々そういう性格をしているのかは私自身にもわからないけれど ―― 。
アレスの手がそっと頭を撫でる。穏やかな顔つきは、それまでの何かを押し隠した表情を拭い去っていて、晴れやかなものがあった。
「そうだね。君はシアと同じ、心の強い女性のようだ」
―― シアと同じ。
アレスの言葉にずきりと胸が痛んだ。
「シア?」
黙った私に怪訝そうな顔をしてアレスが問いかけてくる。私は無理やり笑みを作って、胸の痛みから逸らすように話題を変えた。
「なんでもないよ。そう、実は私ね、ソーマに剣を習おうと思うんだけど、いいかな?」
「ソーマに?」
途端に眉を顰め、考え込むアレスに不安になる。却下されることが怖くて、言い募った。
「お願いっ。少しでも役に立ちたいの。守られるだけなんて私らしくないし!」
そう言うと、アレスは驚いたように瞠目し、それからふわりと優しい笑みを浮かべて頷いてくれた。
「わかった。ソーマを信頼してるけど ―― 怪我はしないよう気をつけて」
「ありがとうっ」
お礼を言いながら、胸の奥で気づいていた。
アレスの瞳が、それこそシアと重ねて見ていたことを。
(もしかしたら、シア王女もそんなこと言ったことあるのかな……。)
――― 守られるだけなんて私らしくないし。
自分で口にした言葉がまるで刃のように胸の痛みを切り広げていくかのようだった。
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