09. トキモリ助手の事件簿

2007年11月01日

序章:怜悧な刃物(1)

 ――― 憎しみはほどけ、そして私は自由になる。

 彼女の言葉は、僕の胸にいつまでも残った。
 寂しさに溢れた声で。

 飛び立った鳥は、彼女だろうか。眩しさに僕は目を細めて、どこまでもその姿を追いかけた。

序章:怜悧な刃物(2)

 それが復讐だったのか、過去の残像から逃れる彼女のたったひとつの方法だったのか僕にはわからない。ただ、最後まで彼女は生きる中での幸せを見つけることができなかったということだけが事実だった。

 ――― 取り出されたナイフの刃は冷たく鋭い煌めきに歪んでいた。ツカを持つ手は赤に塗れて異様な臭いが空気を染めても震えてすらいなかった。しっかりと握りしめられてそこに彼女の決意がみえる。後悔していないという真っ直ぐな意思が周囲にいた者たちを押し黙らせていた。

  「……これはあなたが引き起こしたことなの。逃げるなんて許さないわ」

 ぞっとした。
 感情を一切削ぎ落とされた声は、寒気を走らせてすべてを終わらせた。

01. 依頼人(1)

 うだるような暑さ。
 事務所設立当時からある冷房は大きな音を鳴らしているわりには効力は乏しい。時折、ガタンと止まるのは愛嬌だというつもりか、コノヤロウ。朝9時から出勤して一時間足らずでもう数えるのもうんざりなのに再び止まった冷房を睨みつける。

 「……所長。新しいの買いましょう」
 「トキモリくん。熱中黙すれば火もまた涼しいだよ」
 「それを言うなら、て、なにしてるんです?」
 呆れた言葉に冷房を睨み付けていた視線を所長に向けると、緑色の物体と格闘している姿があった。
 「なにしてるように見える?」
 「遠藤豆のサヤヌキですかね」
 「まさにしかり!」
 たいして嬉しくもなさそうな顔で大声をだされて驚く。というか、自分で当てておきながらため息が零れた。
 「この暑いときになんでそんなことを。仕事して下さいよ」
 「……してるじゃないか」
 呟かれた返事に眉を顰める。
 どこをどんな角度から見ても所長がしているのは遠藤豆のサヤヌキだ。それ以外のなにもしているようには見えない。三十後半にしてはスレンダーな身なりをしているし、細めに整えられた眉。すっと通った鼻梁。サヤヌキに真剣になってるせいかヘの字に結ばれた薄い唇。同年代の男に比べると若々しく、精悍だとは思う。だがそれでもサヤヌキに真剣になるという年齢じゃないだろうに、見ているだけで暑さが増してくる。はあ。と再びため息を零して苛々と口を開いた。
  「いつから僕らは遠藤豆のサヤヌキを仕事にしたんですか!所長の仕事は探偵でしょう!川中子探偵事務所の名前が泣きますよ!」
 「やだなあ。トキモリ君。名前は泣かないよ」
 怒るな、僕。
 この探偵事務所に勤めてハヤ二年。所長のボケっぷりには慣れたはずだ。
 「もっとも泣くのは閑古鳥~ってね」
 あは。俺って冗談もうまい。うまい。
 暢気な口調に読んでいた赤字決算の書類をびりびりと破ってやりたくなった。はっと我に返って破る代わりに書類を机にたたきつける。びくりっと遠藤豆の入ったボールが震えたのが見えた。
 「暑いなか熱くなってもねえ。仕事ないものはしゃーないよ」

 だったら仕事して下さい!

 更に白熱して叫ぼうと口を開いた瞬間、扉をたたく音に気付いて、慌てて飛び出しかけていた言葉を飲み込んだ。代わりに「どうぞ!」と返事をして所長の傍から離れる。

 ドアに向かうと同時に開いて、ひとりの女性が姿を見せた。

2007年11月05日

01. 依頼人(2):(トキモリ~)

 一言で表すなら清楚。胸辺りまで流れ落ちる艶やかな黒髪。対象的に肌は白い。柔らかな印象を受ける黒いつぶらな瞳。長い睫毛。小さめの鼻にふっくらっした朱い唇。手足も焦げ茶色の半袖ワンピースからほっそりと伸びている。風に吹かれたら倒れそうな儚い印象を受けた。
  「……あ、あの?」
 怪訝そうに問いかけられて、扉の前で突っ立っていた僕は我に返った。
 「あっ、すみません。どうぞ中へ」
 「はい。有難うございます」
 まじまじと見つめてしまったにも関わらず、女性はにっこりと穏やかに微笑んでくれた。どきりと、その優しい笑顔に胸が高鳴ってしまう。それを誤魔化すように室内へと促した。

 「所長、お客さんですよ」

 彼女を連れ添って、いまだえんどう豆のサヤヌキに格闘しているだろう所長のもとに向かう。しかし、机の上にあったはずのボールはすでに片付けられていて、わざとらしく真ん中には大量の書類が置かれてあった。ごほんと小さく咳払いをして、所長は立ち上がる。
 「ようこそ、川中子探偵事務所へ。どのようなご依頼でしょう?」
 さっきまでの怠惰な様子は微塵もなく、驚くほど隙のない雰囲気でそう言った。
 ( ――― いつものことながら。)
 仕事にはあくまで真摯に向かうこの二重人格探偵を、僕はやっぱりそれなりに尊敬している。
 トキモリ君、お茶。よろしくね、と視線で訴えかけてくる所長にむかつきながらも。