03. 巡る恋唄

2007年11月01日

水姫の祈り:序章(1)

 月が隠れる夜には不吉なことが起こるものよ、と幼い頃に母親から聞いた言葉が思い浮かんだ。見上げた先では暗闇を煌々と照らし出す満月があって、ほうっと息をつく。同時に夜風が吹いて、身体が震えた。ふわり、と上着が肩にかけられる。そのまま背中から優しく抱き締められた。

 「夜に過去を懐かしむと後悔ばかりが押し寄せるそうですよ」

 寂しげな含みが込められた声が落ちてきて、思わず頬が緩んでしまう。顔を上向けると、見るたびに溜息が零れる美貌が抱擁と同じ優しい微笑みを浮かべて見つめてきていた。月の光を受けて金色に煌く長い髪が風に流れていくのを眺めながら、首を振った。
 「安心して。後悔はしてないから。何度でも言うわ。後悔なんてしない。してない」
 まるで呪文のように繰り返すと、その薄い唇から苦笑が零れ落ちた。

 「貴女にはいつだって僕の心を見透かされてしまうのですね」
 「それだけ貴方を愛しちゃってるのね」
 同じような口調で悪戯っぽく言い返すと、抱き締めてくる腕の力が少しだけ強まった。伝わってくる温もりが心地よく、それを感じて胸が熱くなっていく。心に押し込めているすべてが溢れてきそうだった。同じ気持ちを感じているのか見つめている琥珀色の目も潤んでいることに気づいた。

 「僕も、愛しています。貴女だけを。ただ、貴女だけを愛しています」
 耳元で甘く囁かれる愛の言葉と、熱く触れてくる唇にただ、ただ愛しさを感じていた。

 その空で、月が雲に隠れていくことに気づかないまま ――― 。

序章(2)

 水鏡を前にして、映し出される少女の姿に淡い水色に染まる着物を身につけている女性は、悔しげに歯噛みする。苛ただしげに持っていた扇子で水鏡をぱしんっ、と叩き付けた。

 「おのれっ。鬼を狩る者めっ。所詮は人の子でありながらよくも!」

 暗闇に照らし出される琥珀の目は、怒りの炎で燃えていた。そこにあるのは、敵であることへの憎悪だけでなく、嫉妬。
 一度死に、また現れるとは。なんとも悔しいことか。我こそが首領の封印を解き、必ずこの手に取り戻すと誓ったのに。あの娘はまた邪魔をしようと姿を現した。

 「 ――― 許すまじっ!」
 今度こそ、その姿さえも。魂さえも、滅茶苦茶にしてやる。二度と生きて現れることがないように。傷つけ、滅ぼし ―― そうしてこそ、気持ちが救われる。
娘の身体が切り裂かれる姿を想像して、ようやく心が落ち着いていく。その為にも、けして逃れられぬように罠を張り巡らせねばならない。そう思案して、女性の美しい顔に愉悦の笑みが広がった。

一、鬼を狩る少女(1)

 身体を突き刺すときの鈍い音で我に返った。名前を呼ぶ声が聞こえて、同時に肩に走る痛みを感じながら、手に持っている剣の柄を強く握り締めた。手ごたえを確信させるかのように、自分よりも倍の身体を持つ鬼は、剣で心臓を貫かれてさらさらと砂に化していった。大きい手に平で掴まれて肩に食い込んでいた尖った長い爪も消えていく。そうして地面に落とされていく浮遊感を感じながら、叩きつけられる衝撃を覚悟した。

 「お前ねえ……。どうして俺を呼ばないんだよ」
 衝撃の代わりに呆れたような声が耳朶をうった。まるで風に包み込まれるように身体がふわりと浮いて、抱き止められる。閉じていた瞼を恐る恐る持ち上げると、蒼い髪が見えた。その色にほっと、胸を撫で下ろした。
 「凪……」
 「今更は遅すぎ。あーあ、ほら見ろ。肩に傷なんてつけちまってよ。お前は人間なんだぜ。鬼と違って傷がすぐ治るわけじゃない。今時、自分と引き換えにーなんてのは流行りじゃねえだろうが」
 ぽんぽんと投げられる嫌味に眉を顰めると、凪に抱きあげられていた身体はとんっ、と地面に下ろされた。抱き合うように向かされて、身を屈めてくる凪のその思惑に気づいたときには遅かった。肩口に凪が唇をつける。
 「ちょっ、凪っ……やめて!」
 慌てて離れようと身体を捩ろうとしたけれど、腰に巻きついたままの凪の腕の力は強くて、動けなかった。ざらりとした熱い舌が肩の傷を這うように舐めていく。
 「……っ、バカ凪っ!変態っ、すけべっ!」
 背筋を走り抜ける何かを誤魔化すために、思いつく雑言を投げつける。だけど、凪から返ってくるのは面白がる笑い声だけで、その行為をやめてはくれなかった。
 「まあ。こんなもんだな。ほら、治ったぜ」
 その言葉と同時にどんっ、と身体を押し返す。今度は素直に離れてくれた。
 肩に走っていた痛みはすっかり消え去っていて、赤く流れていた血も。その爪あともすっかり元に戻っていた。肩を回しても、痛みひとつない。それでも素直に感謝する気にはなれなくて、まだ面白そうに見下ろしてくる琥珀の目を不満げに睨みつける。

 「あのね!傷を治してくれたのは感謝するけど、その変態行為はなんとかならないのっ?!」
 「おまえが傷を作らなきゃ必要ないことだ」
 更に反論しようとすると、くるりと背を向けてそれまで鬼がいた場所に歩いていった。そうして道端に落ちていた透明な珠を手に取ると戻ってくる。ほらよ、と投げ渡されたそれを慌てて受け止めた。
 「大事な鬼珠だ」
 「ありがと」
 鬼の魂であるそれを握り締めると、ひんやりとした感触が伝わってきた。その冷たさにぐっと胸が詰まってしまう。後どれくらい集めればいいんだろう。
 この作業が果てしなく続くような気がして溜息が零れた。ぽんぽんと頭に置かれた手に顔をあげる。宥めるような目つきをしている凪に気づいて拗ねてしまった。
 「なんでもないっ」
 「はいはい。いーから、今夜はこれで帰るぜ。腹減った」
 「凪はなーんにもしてないでしょ!」
 何も、という言葉を強調すると、ニヤリと口の端をつり上げて皮肉気に笑う凪は肩を指差してきた。その意図に気づいて、舐められたことを思い出してしまい、歩き出した背中に文句を投げつける。
 「やっぱり変態っ!!」
 「へいへい。ほら帰るぞ」
 軽く受け流しながら、飄々と歩いていく姿を睨みつける。まったくもう、と呆れながらも、置いていかれないように走って追いかけた。

一、鬼を狩る少女(2)

 結局、自分のアパートに帰りついたのは明け方で、それから腹が減ったとうるさい凪にご飯を食べさせていたら睡眠時間を全く取れなかった。
 凪の馬鹿、と声に出して罵りそうになって、「藤野さん?」と後ろから呼ばれた声に慌てて飲み込んだ。返事をして振り向くと、ひとりの男の子が立っていた。学校で、同じ制服を着ている。さっと目を走らせると襟袖に『Ⅱ』の学年章がついていた。同級生だと思うけど、自分を除いてクラス三十九人の名前をすべては覚えきれない。しかもクラス替えをしたばかりでは、顔と一致しろというほうが無理だった。友達三人と、担任、あとは、……酷く憂鬱ではあるが保健医の先生の顔くらいしかわからない。というか、必然であるため覚えているけど、それ以外には興味がないというのが本音だった。

 「えーと……」
 一応思い出そうと努力はしてみるが、全く記憶にない場合どうしようもない。さらさらの黒い髪に、色白い肌。わりと顔は整っていると思う。眼鏡をかけている姿が優等生と印象付ける。困惑していると、彼はにっこりと笑顔を浮かべた。
 「僕は同じクラスの土岐壱(ときはじめ)。委員長してるんだけど、そんなに印象薄かった?」
 委員長、と聞き慣れない言葉を耳にして、その雰囲気がぴったり当て嵌まることに思わず納得していた。それが悪かったのか本音がぽろりと零れてしまっていた。

 「ごめんね。まだ全員を覚え切れなくて。悪気はないの。ただ、興味がないだけで」

 土岐、という男の子の目が丸く見開かれる。余程驚いたのか、眼鏡が少しずれてしまった。それを見て、慌てて口を押さえる。もしかしなくても、余計なことを言ってしまったかもしれない。もう一度謝るために口を開こうとして、目の前の相手は急にお腹を抱えて笑い出した。
 「はっはは ―― そ、そんな素直に言われたの、初めてだよっ。面白っ……」
 放課後の廊下の真ん中で大爆笑されて、ハッと我に返った。ホームルームが終わったばかりで、まだ生徒の姿が多い。そんな中で呆然としている自分と爆笑している相手では目立ってしかなかった。
 「ちょっと、こっち!」
 慌てて土岐くんを引っ張っていく。まだ笑いが止まらないのか、それでも抑えようと制服の袖で口を塞いで、奇妙にくぐもった声をあげながら、為すがままよろしくついてきた。

 「それで、何か用だったの?」
 がらりと開けた保健室に慣れたように入り込んで、ついてきた彼を振り向いた。問いかけを無視して、不思議そうな目で見つめてくる。
 「なんで保健室?」
 「先生にプリント作成の手伝いを頼まれてたから。それに、今日は会議があるって言ってたからまだ来ないと思うし」
 「へえー。本当だったんだ。藤野さんが先生の助手してるって」
 揶揄するような口調で保健室を見回している土岐くんを見つめる。悪いの、と挑発するように問いかけると、彼は肩を竦めた。
 「ただそう噂があったから。まあ。僕には関係ないけど。それこそ興味ないし」
 「だから、何か用だった?」
 最初の自分の言い回しを使われたことに少しムッとなったが、だったら何の用事だろう、と疑問に思った。用事がないのなら、できるだけ関わらないでほしいのに。そんな思いが口調に滲みでていたのか、苦笑を零された。
 「やっぱり忘れてる。当番でさ。担任の先生が今度のクラス会で使う道具を買いに行ってほしいって言ってたこと」
 呆れながら言われた言葉に、記憶が甦ってくる。そういえば、朝のHRのときにそんなことを言われた気がする。眠かったこともあって、適当に聞き流していて、放課後になったらすっかり忘れてしまっていたみたいだった。
 「ごめんね。すっかり忘れてた」
 素直にそう謝ると、一瞬目を細めた土岐くんはすぐに微笑んで頷いた。
 「いいよ。今日ずっと藤野さん、眠そうだったからね。そうじゃないかと思ってた。俺、ひとりで行ってくるから今日は早く帰って寝なよ」
 その優しさに警戒していた気持ちが解けていく。だけど、甘えるわけにはいかなくて首を振る。後々うるさいけれど、頼まれたことを人任せにするのは嫌だった。
 「そういうわけにはいかないでしょ。一緒に行くから」
 「でも保健の先生の頼まれごとは?」
 それは口実だからいいの、と口に出しそうになって慌てて飲み込んだ。怪訝そうにする土岐くんに笑顔で誤魔化しながら、どうしようか迷った。いくら用事があっても放課後に顔を出さないと後でしつこいくらいに付き纏ってくる。適当な言い訳は通用しない。今日は特に睡眠不足でもあるから、早く帰って眠りたいのに、一緒にいたくない相手に付き纏われるのは嫌だった。だからこそ、今日は早目に来たのに。そう思った瞬間、意識が気配を掴んだ。さっさと姿を見せてよ、とムカついてそう言おうとした言葉は明るい口調に遮られた。
 「じゃあ、明日の放課後に行こうよ。今週末までに買いに行けばいいんだしさ」
 ねっ、と同意を求めて提案された言葉に驚いているうちに、土岐くんはさっさと踵を返した。
 「俺、部活があるから。明日ね、今度は忘れないでよ!」
 そう言って止める間もなく、返事を聞かないままで、がらりと扉を開けて出て行った。その慌しさに暫く呆然と扉を見つめていたけれど、どちらにしても遅すぎる事実に溜息をついた。

一、鬼を狩る少女(3)

 「あらあら。デートの約束? あの男の子もやるわね」
 再び扉が引かれて入ってきたのは、この保健室の主だった。
 肩よりも長いまっすぐな黒髪はさらさらと揺れ、切れ長の黒い瞳は楽しそうな光を宿している。色白い肌に口紅を塗っているわけでもないのに赤い唇。一見、日本人形のような姿は、しかし裏腹にその性別は男性だった。赴任してきたとき、その事実を知ったほとんどの男子生徒が絶望に呻いた。それでも通りすがるだけで、教師を含めて見惚れてしまうほど美人で、本気で惚れこんでいる者もいるらしい、と友達が言っていたことを思い出す。これで同性愛者だったり、女装が趣味とかだったりするなら、まだ許せる。だけど、ただ人を振り回すことが好きなだけでこの姿をしているという人間に惚れるのは悪趣味としかいいようがない。勿論、そんな内面を欠片として見せることはないけれど。外面だけはいい。その証拠に、土岐くんだけには気配を悟られないように隠れていたのだから。呆れてその事実を突きつける。

 「聞いてたんでしょ」
 「あーら。当然デショ。大事な婚約者に変な虫がつこうとしてるのに見逃すわけないじゃない」
 「朔夜!」
 肩を竦めて言われた言葉に、ハッと息を呑む。思わず咎めるように呼んでいた。
 「どーしたの?」
 怒ってる理由が全くわからないとばかりに目を瞬かせる。不意に顔を覗き込むように上体を屈めてくるから、纏っている白衣から薬品の匂いに混ざって煙草の香りが鼻についた。思わず眉を顰める。一歩後ずさって、制服のスカートのポケットを探った。入れておいた巾着袋を取り出して、朔夜に押し付けた。
 「鬼珠?」
 頷くと、朔夜はそう、と興味なさげに白衣のポケットに無造作に入れる。そのまま歩き出して、保健室に置かれた専用の机に向かう。黒塗りの椅子に座って、くるりと回転させると、手招きをした。それに従って近寄り、目の前に立つと右手を取られた。見上げてくる目が、心の奥まで入り込んでくるようで、思わず視線を逸らす。くすりと笑う声が聞こえた。

 「今日は時間あるわよね?」

 逸らしていた目を向ける。それを聞いたとき後悔が押し寄せてきた。鬼珠を渡すのを早まった。渡さなければ数日は鬼狩りを理由に誤魔化せたのに。そう思ったことが顔にでていたのか、朔夜の瞳に鋭い光が宿った。ぴんと空気が張り詰める。
 「紫(ゆかり)」
 「……食事だけなら付き合うからっ」
 強い口調で名前を呼びかけられて、懇願するように言う。もっと何かを言われると危惧していたけれど、意外にも朔夜は柔らかい笑顔を見せて、頷いた。
 「そうだね」
 貰えた返事にほっと息をつく。だけど、まるでそれを狙ったかのようなタイミングで続く言葉を言われた。
 「明日の朝ご飯までたっぷり付き合ってもらうよ」
 突き付けられた言葉に胸が詰まる。絶望が徐々に支配しようとする心の中で、必死に抵抗しながら、首を振る。弱いところを見せるのは嫌だったけれど、泣きそうになる口調を変えることはできなかった。

 「今日はやだ…」

 「仕事が終わるまでそこのベットで眠ってなさい」
 拒否しても、握られていた手を引っ張られて、朔夜の腕の中に捕らわれる。
 「……やだ」
 繰り返し首を振っても、聞き入れてもらえずに、髪を撫でられる。それが合図でもあるように、意識が奥深くに入り込んでいく。睡眠不足のこともあって、その術に抵抗することなく、朔夜の腕の中で眠りにつくしかなかった。

 備え付けのベットに紫を寝かせて、音を立てないようにカーテンを引く。椅子まで戻って座ると、ポケットに入れていたものがじゃらり、と音をたてた。巾着を取り出して、鬼珠を手の平に取り出す。水色赤色黄土色、様々な大きさの色がある。その中に蒼色がないことに気付かないと思っているのか。

 「どっちにしても全部集めないと封印は解けない。解かない」
 言い直して、鬼珠に意識を集中させる。それは淡く白い塊になって朔夜の口の中に入りこんだ。
 すぅと吸い込んだあと、力が溜まっていくのを感じて、息をつく。これでまた近づいた。だけど、まだまだ足りない。そう思ったとき、ふと声が聞こえた気がして、視線をカーテンに向けた。暫くじっと意識を集中させても、それが再び聞こえることはなくて、張り詰めていた緊張を解く。それでも、夢の中まで探ることはできない。深い眠りは夢を見ることがないとはいうけれど、確実ではない。だったら、もっと縛り付けておかないと、安心できない。

 「今も昔も、――これからも。あの子は俺のものだ」
 二度と。邪魔もさせないし。誰にも渡すつもりはない。逃がすつもりもない。そのためなら、なんだってする。そう、なんだって ――― 。それはそう。とても自然なことなんだと、それを刻み付けるためにも早々に仕事を終わらせなければ。キャスターを回して机に向き合うことにした。