2007年11月01日
一、鬼を狩る少女(2)
結局、自分のアパートに帰りついたのは明け方で、それから腹が減ったとうるさい凪にご飯を食べさせていたら睡眠時間を全く取れなかった。
凪の馬鹿、と声に出して罵りそうになって、「藤野さん?」と後ろから呼ばれた声に慌てて飲み込んだ。返事をして振り向くと、ひとりの男の子が立っていた。学校で、同じ制服を着ている。さっと目を走らせると襟袖に『Ⅱ』の学年章がついていた。同級生だと思うけど、自分を除いてクラス三十九人の名前をすべては覚えきれない。しかもクラス替えをしたばかりでは、顔と一致しろというほうが無理だった。友達三人と、担任、あとは、……酷く憂鬱ではあるが保健医の先生の顔くらいしかわからない。というか、必然であるため覚えているけど、それ以外には興味がないというのが本音だった。
「えーと……」
一応思い出そうと努力はしてみるが、全く記憶にない場合どうしようもない。さらさらの黒い髪に、色白い肌。わりと顔は整っていると思う。眼鏡をかけている姿が優等生と印象付ける。困惑していると、彼はにっこりと笑顔を浮かべた。
「僕は同じクラスの土岐壱(ときはじめ)。委員長してるんだけど、そんなに印象薄かった?」
委員長、と聞き慣れない言葉を耳にして、その雰囲気がぴったり当て嵌まることに思わず納得していた。それが悪かったのか本音がぽろりと零れてしまっていた。
「ごめんね。まだ全員を覚え切れなくて。悪気はないの。ただ、興味がないだけで」
土岐、という男の子の目が丸く見開かれる。余程驚いたのか、眼鏡が少しずれてしまった。それを見て、慌てて口を押さえる。もしかしなくても、余計なことを言ってしまったかもしれない。もう一度謝るために口を開こうとして、目の前の相手は急にお腹を抱えて笑い出した。
「はっはは ―― そ、そんな素直に言われたの、初めてだよっ。面白っ……」
放課後の廊下の真ん中で大爆笑されて、ハッと我に返った。ホームルームが終わったばかりで、まだ生徒の姿が多い。そんな中で呆然としている自分と爆笑している相手では目立ってしかなかった。
「ちょっと、こっち!」
慌てて土岐くんを引っ張っていく。まだ笑いが止まらないのか、それでも抑えようと制服の袖で口を塞いで、奇妙にくぐもった声をあげながら、為すがままよろしくついてきた。
「それで、何か用だったの?」
がらりと開けた保健室に慣れたように入り込んで、ついてきた彼を振り向いた。問いかけを無視して、不思議そうな目で見つめてくる。
「なんで保健室?」
「先生にプリント作成の手伝いを頼まれてたから。それに、今日は会議があるって言ってたからまだ来ないと思うし」
「へえー。本当だったんだ。藤野さんが先生の助手してるって」
揶揄するような口調で保健室を見回している土岐くんを見つめる。悪いの、と挑発するように問いかけると、彼は肩を竦めた。
「ただそう噂があったから。まあ。僕には関係ないけど。それこそ興味ないし」
「だから、何か用だった?」
最初の自分の言い回しを使われたことに少しムッとなったが、だったら何の用事だろう、と疑問に思った。用事がないのなら、できるだけ関わらないでほしいのに。そんな思いが口調に滲みでていたのか、苦笑を零された。
「やっぱり忘れてる。当番でさ。担任の先生が今度のクラス会で使う道具を買いに行ってほしいって言ってたこと」
呆れながら言われた言葉に、記憶が甦ってくる。そういえば、朝のHRのときにそんなことを言われた気がする。眠かったこともあって、適当に聞き流していて、放課後になったらすっかり忘れてしまっていたみたいだった。
「ごめんね。すっかり忘れてた」
素直にそう謝ると、一瞬目を細めた土岐くんはすぐに微笑んで頷いた。
「いいよ。今日ずっと藤野さん、眠そうだったからね。そうじゃないかと思ってた。俺、ひとりで行ってくるから今日は早く帰って寝なよ」
その優しさに警戒していた気持ちが解けていく。だけど、甘えるわけにはいかなくて首を振る。後々うるさいけれど、頼まれたことを人任せにするのは嫌だった。
「そういうわけにはいかないでしょ。一緒に行くから」
「でも保健の先生の頼まれごとは?」
それは口実だからいいの、と口に出しそうになって慌てて飲み込んだ。怪訝そうにする土岐くんに笑顔で誤魔化しながら、どうしようか迷った。いくら用事があっても放課後に顔を出さないと後でしつこいくらいに付き纏ってくる。適当な言い訳は通用しない。今日は特に睡眠不足でもあるから、早く帰って眠りたいのに、一緒にいたくない相手に付き纏われるのは嫌だった。だからこそ、今日は早目に来たのに。そう思った瞬間、意識が気配を掴んだ。さっさと姿を見せてよ、とムカついてそう言おうとした言葉は明るい口調に遮られた。
「じゃあ、明日の放課後に行こうよ。今週末までに買いに行けばいいんだしさ」
ねっ、と同意を求めて提案された言葉に驚いているうちに、土岐くんはさっさと踵を返した。
「俺、部活があるから。明日ね、今度は忘れないでよ!」
そう言って止める間もなく、返事を聞かないままで、がらりと扉を開けて出て行った。その慌しさに暫く呆然と扉を見つめていたけれど、どちらにしても遅すぎる事実に溜息をついた。
- by 羽月ゆう