13. 見果てぬ夢(仮)

2010年04月27日

01:始まりの朝(5) >見果てぬ夢(仮)

 陽菜を起こさないように気をつけながら、ベッドをそっと降りて足音を立てないように部屋を出て行く。
 廊下はフローリングで、ひんやりと心地よかった。
 向かい側には巴、その隣には明の部屋。私と陽菜に準備された部屋の隣に悠貴の部屋があると説明された。通り過ぎて、最初に皆で自己紹介をしたリビングに向かう。仕切りになっている扉を押し開けると、さらりとした風が頬を撫でていった。
 リビングの更に奥。カーテンがわずかに揺れていた。ベランダに続く窓が開いていることに気づいて、意識を集中させる。
(……この気配は悠貴さんだ。)
 そっと近づいていくと、苦笑の滲んだ声がカーテン越しに聞こえてきた。
「そんなに警戒しないでも大丈夫ですよ。遠慮しないで、どうぞ」
 その言葉に後押しされて、カーテンを避けてベランダに足を踏み入れる。彼は柵に寄りかかって、面白そうに視線を向けてきていた。結んだ黒髪が流れていく風に靡いていて、金色の瞳が月の光を受けて煌いている。片手に持っている琥珀色の飲み物と同じように。
「――眠れないんですか?」
 気遣う声は、霧華には優しく甘く聴こえる。
 初めて会ったのは昨夜。
 それなのに、彼の気配は懐かしさを感じる。ずっと前から知っていたような。
(有り得ないけど……。)
 物心ついたときから、傍にいたのは陽菜とイチ君と零くんだけ。まだ白銀の前当主が生存中は、使用人や護衛のひとたちと関わる機会はあったけれど、誰もが自分より幾つも離れた年上だった。前当主が亡くなってからは、閉じ込められて、イチ君と零くん以外とは接することは勿論、だれとも目を合わすことも許されなかったから。
 さっき夢から覚めたときのように、息苦しさを覚えた。
 柵に背中を預けている彼とは対照的に、柵を握って空を見上げる。ビルに囲まれているから広くはないけれど丸い月が浮かんでいるのはわかった。
 思わず、手を伸ばす。
「……いつも硝子越しに見る月だったんです。今夜は手を伸ばせば届きそう」
「霧華さん……」
 悲しみが含まれた口調で呼ばれたことに驚いて、月から視線を移した。
 感情がこもっていた口調とは裏腹に、悠貴さんのキレイな顔には表情が浮かんでいない。零くんも、喜怒哀楽を表情には表さなかった。トップに立つものは常に感情を覆い隠し、冷静でいること。そこにいるだけで一瞬にして場を支配する零くんには畏怖を感じていた。逆らうことの許されない恐怖。
 悠貴の無表情はそれとは違う。
 確かに感情は浮かんでいないけれど、なんとなく、霧華には彼の喜怒哀楽が伝わってくる。気遣ってくれる優しさも、今伝わってきたような悲しみも。だからどんなに表情がなくても、怖いとは感じない。
 まっすぐ見つめてくる金色の瞳に、絡めとられてしまうような気分になる。甘い熱に、どきどきと胸が鳴る。
「もう、貴女は自由なんです。月に触りたいというなら、連れて行きましょう。空を飛んでみたいというのでしたら、飛行機でも、飛行船でも、気球でもお好きなものを用意しますよ」
 本を読んでいたときに想像した。月に行って、でこぼこのクレーターを触ってみたい。飛行船に乗って空を旅してみたい。小さなクルーザーでいいから広い海をどこまでも走ってみたい。そんなことを夢見ながら、本当の願いはひとつだけだった。
 ――外に出たい。
 それが叶った今。
 次にしたかったことは――。
 霧華の返事を彼はどこか楽しげに待っているように思えた。表情には出ないからそう伝わってくるだけとはいえ。
「私、ずっとやりたかったことがあるんです。悠貴さん、お願いできますか?」
 もし許されるなら、自分でやってみたかったことがある。だけど、一度もしたことがないから、一人でするには不安。その不安を打ち消すように、悠貴は頷いてくれた。
「僕でできることでしたら――」