2008年05月08日
00 -差し伸べられた手-
――― キリちゃん。こんどは、いっしょにお出かけしようね。
無理よ。私はここから出られないの。この鳥かごから、出ちゃいけないの。
―――― だいじょうぶ。あたしが、とびらを開けてあげるから、そしたら、キリちゃんは飛んでいけるよ。だって、キリちゃん。先生が言ってたよ。
だれにだって、つばさがついていて。飛び立ちたいと思うなら。そのために勇気を出せば、いつかは自由に飛びたてるって。あたし。キリちゃんが飛んでいけるように、がんばる。がんばるから。キリちゃん。いっしょに。
「自由になろう」
姿を隠してくれるから、暗闇は苦手じゃない。闇の中でも目が見えるし、意識を研ぎ澄ませていれば、明るい陽の下にいるよりも、他人の気配を読みやすい。その特技を最大限に使えるから、どちらかといえば、暗闇はひとつの好機。だけど、私が望んでいるのは、それとは違う。太陽の下。光を全身に浴びて、――― なによりも。自由を。あの子がくれた希望。それを今、つかみたいと心から思った。自分でそう望んだから、いま、ここにいる。
無意識に握り締めていた手が汗ばんでいることに気づいて、苦笑した。今からこんなに切羽詰った気持ちでいたら、ダメになる。水面下で進めてようやく手に入れた一度だけ。一度だけの機会を、自分の手で潰したくなかった。
「 ――― っ?!」
不意に幾人かの気配を感じ取って、身体が小さく震える。ぎゅっと緩めていた手を握って、隠れている場所からはみでないように。膝を抱えて、一層身を縮めた。同時に、耳を澄ませる。
「おい、いたか?」
「いや。……しかし、まずいな。もう一時間になるぞ」
男たちの会話が聞こえてくる。口調には焦りが滲み出ていた。
「ああ。もう、一紀(いちき)さまも宥めては下さらないだろうな」
絶望が含んだ声が発した名前に、ぎくりと身体が強張る。隠れているから時間まではわからなかった。
( ――― 一時間。)
そんなに長くひとりで外にいるのは初めての経験で、今の状況を置いて、新鮮な気持ちになった。もちろん、それが相応のものと引き換えになることは理解している。捕まったら、一時間も逃げ出していた代償を払わされる。しかも、いつもなら笑って許してくれる一紀も、助けてはくれない。そればかりか、彼らの言葉によると、一紀までも怒らせてしまったらしい。もうひとりのもつ、威厳や雰囲気も怖いけれど、一番怖いのは、一紀が怒ったときだ。軽いノリで誰とでも気安く接し、優しい一紀は面倒見もよくて部下たちに慕われているけれど、怒らせたら誰も手がつけられなくなる。彼は一瞬で空気を支配できるし、笑ったまま、目の前の相手を平気で殺せる。
前に、どうしても外に出たくて、ご飯を食べないというストライキを起こしたことを思い出した。外に出してくれるまで、一口も食べないと頑固に首を振っていたら、一紀がやってきた。しょうがないなーと頭を優しくぽんぽんっと叩いて彼はにっこり微笑んだ。
『後のことに責任を持つなら、好きにしてもいいよー?』
その言葉に、てっきり自分の願いが適ったんだと思った。嬉しくなってぱっと、顔を上げて、――― 一瞬で身体が硬直した。微笑んでいるのに。いつもの優しい笑顔なのに、目が笑ってない。剣呑な光を宿した瞳に、息を呑んだ。嫌な予感に、背筋を冷や汗が流れていく。その予感を的中させるように、一紀はご飯を作ってくれていたという人を部屋に連れてきて、目の前で ―― 思い出して吐き気がこみあげてくる。彼は躊躇う素振りを欠片もなくむしろ笑ったまま、差し出されたご飯を残さず食べるまで引き金を引き続けた。味も、熱さもわからないまま、泣きながら私はご飯を口の中に無理やり詰め込んだ。食べ終わると、一紀は私の頬を伝う涙をそっと指で拭いながら、囁いた。
『零くんと違って、俺は可愛い君にダメだって言いたくはないんだよねー』
引き金をひいていたときの雰囲気を消し去って、いつもの軽いノリに戻った一紀はにっこり微笑む。
『けど、あんまり我侭が過ぎると、周囲に迷惑がかかるから気をつけてね』
語尾にハートマークをつけそうな、甘えた口調で言って片目をつぶった姿に、ぞっと恐怖を感じた。青褪めた私に、「ああ、でも。可愛い我侭はいつだって、叶えたげるから言って、言ってー」そういつものように今度こそ、無邪気な笑顔を向けてきた。それがもう。偽りだとわからずにはいられないのに。
「くそっ。最後に見かけたのはここら辺だ。それからすぐに包囲したから、逃げ出せるはずがないんだ」
「落ち着け。しらみ潰しに探してるんだ。あとは、ここと。別働隊が向かった二箇所しかない。どちらかにはいるだろう」
あれだけ混乱させたにも関わらず、たった一時間でもう二箇所だけ。あのふたりが動いているんだからそれは当然だけど、所詮は手のひらで踊っているに過ぎないのかもしれないと思った。必ず捕まることが前提になっている鬼ごっこ。捕まっても鬼の交代というような、生易しいものじゃないけれど。
ざくざくっ。
男たちの足音が近づいてくる。普通なら、聞こえないほどその音は最小限に消されていて、だけど、わかる。彼らの息遣いも、確実に迫ってくる、気配も。
見つかってしまったら、逃げ切る自信なんてない。想像以上の人間が動いている。それに訓練されている彼らの手からひとりで抜け出せるほどの力も、ない。怖くて、たまらない。
――― キリちゃん。勇気だして。
湿った風が、髪を揺らす。誰よりも、あたたかく。優しい声が聞こえた気がした。それは、ひとりじゃないと手を繋いでくれているような、ぬくもりをくれて。怖くて震えている身体に、力をくれる。ぐっとしゃがんでいた身体を起こして、いつでも走り出せる状態にする。見つかったら、とにかく全速力で駆け抜けよう。行ける所まで。そう決意して、足に力を入れる。
途端、どさっ、どさどさっと何かが地面に倒れる音が聞こえてきた。それはすぐに止んで、周辺が静かになる。近づいていた足音や気配は消えている。代わりに、――― ひとつだけ。まるで空気に溶け込むような、自然で柔らかい気配が感じられた。
「 ――― いるんでしょう?」
はっと息を呑む。今まで聞いたことのない、声。暗闇の中で、それはとても、穏やかに。優しく響いてきた。だれだろう、と警戒しながら、息を潜める。
「ひなさんの、ご依頼で。あなたを助けに来ました」
続けられた言葉に愕然となる。
(ひな ―― 。)
たったひとつの、心の支え。どうして、その名前を。
「時間がありません。出てきて下さい。どうか、僕を信じて」
切羽詰ったような言葉の羅列とは違って、穏やかな口調と、たったひとつの大切な名前に、疑うことも忘れて、思わず立ち上がって姿を見せていた。
ああ、と気づいたように、暗闇の中でまるで太陽の光のような、きれいな金色の瞳が細まる。だけど、それ以外は、頭からすっぽりと黒衣を纏っていて、闇に溶け込んでいた。彼は手を差し出してくる。
「扉を……。鳥かごの扉を開けてほしい。それが彼女のご依頼です」
あの話は、ふたりだけの秘密。他には誰も知らないはず。だからこそ、信じられると思う。だけど、もしも ―― 。
――― 勇気を出して。
再び聞こえてきた声に、躊躇する理由はなにもなかった。
あー、うん。もういいよ、君たち。全員、処刑。
肩を竦めてそう判決を下してから、耳に押し当てていた携帯の電源を切った。役立たず、と思うだけでは抑えきれずに吐き捨てる。
「……おい。あの部隊を作るのはそれなりに、労力と金がかかってるんだぞ」
不満そうに、腰掛けていた机の持ち主が、座っているソファから声をかけてきた。
「一時間もやったのに、女の子ひとり捕まえられなきゃ無駄でしょ、無駄無駄」
それとも、とにやりと口端をあげて、笑みを浮かべる。投げかけた視線の意味を察したのか、すぐに肩を竦めてみせた。
「聞くまでもない。許すわけないだろ」
たった二言でも、長い付き合いで、その言葉に含まれている意味はすぐに理解できる。そうそう、と頷いて、寄りかかっていた机から身体を起こして、更に奥にある窓に向かう。見下ろす景色は、光が揺らめいていて、まるで星のようにも思える。だが、すぐにそれを言ったのが彼女で、自分はそんなにロマンチックじゃなかったと呆れた。彼女に感化されるのは心地いいけれど、それが油断に繋がったのかもしれないと思うと、忌々しい。
「まさか、俺らの足止めに陽子(ようこ)さんが出てくるとは思わなかった」
驚きが含まれた声に同意する。男ばかりを警戒していて、まったく予想していなかった存在に意外な足止めを食らって、大切な宝珠を手の中から逃したばかりか、追いかけることもできなかった。電話で命令がだせただけだったけれど、それも役には立たなかった。意外な存在は常に先を見通していた自分たちの目を曇らせ、後手にまわることを余儀なくされた。
「俺たちには一度しか通じない手だけど、だからこそ向こうさんも慎重になってたんだなー。困ったね、これはどうも」
腹立たしい。別のことなら、笑ってそれこそ興味津々とゲームにのってやるところでも、今回のことは、遊びにはならない。俺たちの一番の禁忌に触れてしまった。相応の、いや。それ以上の代償は支払わせる。
「一紀。彼女が自分から戻ってきたら、どうする?」
不意に問いかけられて、思いもがけない言葉に目を見張る。
( ――― どうする?)
反芻して、苦いものがこみあげてくるのを感じた。それを覆い隠すように、恐らくいま自分は、嘲笑を浮かべているだろうけれど。
「自分からであろうと、捕まえようと。逃げ出したことには代わりないと思わない?」
大事なのは、その点につきる。あれだけ、逃げたらどうなるか教えておいてあげたのに。あれでもまだ、優しく。遠まわしだったのに。
「それなら、陽子さんを初めとして、この計画に関わった奴らは殺すなよ」
そう言われて、ああ、なんだと思った。どうやら、釘を刺したかったらしいと納得して、苦笑した。いつもは自分こそが宥める側なのに。不思議に思って、外の景色から視線をはずして振り向いた。ソファにゆったりと座っている自分と同じ顔の男は、唯一違う、闇そのもののような目に穏やかな光を湛えている。
「もちろん。それは彼女を取り戻してからの楽しみにしとくって。けど零(れい)くんは随分と ―― 」
冷静だね、と言おうとして気づいた。その纏う雰囲気が、これ以上ないほどの怒りに染められていることを。自分も同じくらいに怒り狂っていたから、感じ取れなかっただけだ。
「イチ。生涯、二度はないことを刻みつけさせるぞ」
地を這うような、低い声に同じ存在であっても、圧倒される。いつもなら、彼女を想って宥めるところだけれど、今は同じ気持ちだから頷いて、そのための計画を練り始めた。
- by 羽月ゆう