13. 見果てぬ夢(仮)

2008年05月08日

00 -差し伸べられた手-

 ――― キリちゃん。こんどは、いっしょにお出かけしようね。

 無理よ。私はここから出られないの。この鳥かごから、出ちゃいけないの。

 ―――― だいじょうぶ。あたしが、とびらを開けてあげるから、そしたら、キリちゃんは飛んでいけるよ。だって、キリちゃん。先生が言ってたよ。

 だれにだって、つばさがついていて。飛び立ちたいと思うなら。そのために勇気を出せば、いつかは自由に飛びたてるって。あたし。キリちゃんが飛んでいけるように、がんばる。がんばるから。キリちゃん。いっしょに。

 「自由になろう」


 姿を隠してくれるから、暗闇は苦手じゃない。闇の中でも目が見えるし、意識を研ぎ澄ませていれば、明るい陽の下にいるよりも、他人の気配を読みやすい。その特技を最大限に使えるから、どちらかといえば、暗闇はひとつの好機。だけど、私が望んでいるのは、それとは違う。太陽の下。光を全身に浴びて、――― なによりも。自由を。あの子がくれた希望。それを今、つかみたいと心から思った。自分でそう望んだから、いま、ここにいる。
 無意識に握り締めていた手が汗ばんでいることに気づいて、苦笑した。今からこんなに切羽詰った気持ちでいたら、ダメになる。水面下で進めてようやく手に入れた一度だけ。一度だけの機会を、自分の手で潰したくなかった。
 「 ――― っ?!」
 不意に幾人かの気配を感じ取って、身体が小さく震える。ぎゅっと緩めていた手を握って、隠れている場所からはみでないように。膝を抱えて、一層身を縮めた。同時に、耳を澄ませる。
 「おい、いたか?」
 「いや。……しかし、まずいな。もう一時間になるぞ」
 男たちの会話が聞こえてくる。口調には焦りが滲み出ていた。
 「ああ。もう、一紀(いちき)さまも宥めては下さらないだろうな」
 絶望が含んだ声が発した名前に、ぎくりと身体が強張る。隠れているから時間まではわからなかった。
 ( ――― 一時間。)
 そんなに長くひとりで外にいるのは初めての経験で、今の状況を置いて、新鮮な気持ちになった。もちろん、それが相応のものと引き換えになることは理解している。捕まったら、一時間も逃げ出していた代償を払わされる。しかも、いつもなら笑って許してくれる一紀も、助けてはくれない。そればかりか、彼らの言葉によると、一紀までも怒らせてしまったらしい。もうひとりのもつ、威厳や雰囲気も怖いけれど、一番怖いのは、一紀が怒ったときだ。軽いノリで誰とでも気安く接し、優しい一紀は面倒見もよくて部下たちに慕われているけれど、怒らせたら誰も手がつけられなくなる。彼は一瞬で空気を支配できるし、笑ったまま、目の前の相手を平気で殺せる。
 前に、どうしても外に出たくて、ご飯を食べないというストライキを起こしたことを思い出した。外に出してくれるまで、一口も食べないと頑固に首を振っていたら、一紀がやってきた。しょうがないなーと頭を優しくぽんぽんっと叩いて彼はにっこり微笑んだ。
 『後のことに責任を持つなら、好きにしてもいいよー?』
 その言葉に、てっきり自分の願いが適ったんだと思った。嬉しくなってぱっと、顔を上げて、――― 一瞬で身体が硬直した。微笑んでいるのに。いつもの優しい笑顔なのに、目が笑ってない。剣呑な光を宿した瞳に、息を呑んだ。嫌な予感に、背筋を冷や汗が流れていく。その予感を的中させるように、一紀はご飯を作ってくれていたという人を部屋に連れてきて、目の前で ―― 思い出して吐き気がこみあげてくる。彼は躊躇う素振りを欠片もなくむしろ笑ったまま、差し出されたご飯を残さず食べるまで引き金を引き続けた。味も、熱さもわからないまま、泣きながら私はご飯を口の中に無理やり詰め込んだ。食べ終わると、一紀は私の頬を伝う涙をそっと指で拭いながら、囁いた。
 『零くんと違って、俺は可愛い君にダメだって言いたくはないんだよねー』
 引き金をひいていたときの雰囲気を消し去って、いつもの軽いノリに戻った一紀はにっこり微笑む。
 『けど、あんまり我侭が過ぎると、周囲に迷惑がかかるから気をつけてね』
 語尾にハートマークをつけそうな、甘えた口調で言って片目をつぶった姿に、ぞっと恐怖を感じた。青褪めた私に、「ああ、でも。可愛い我侭はいつだって、叶えたげるから言って、言ってー」そういつものように今度こそ、無邪気な笑顔を向けてきた。それがもう。偽りだとわからずにはいられないのに。
 「くそっ。最後に見かけたのはここら辺だ。それからすぐに包囲したから、逃げ出せるはずがないんだ」
 「落ち着け。しらみ潰しに探してるんだ。あとは、ここと。別働隊が向かった二箇所しかない。どちらかにはいるだろう」
 あれだけ混乱させたにも関わらず、たった一時間でもう二箇所だけ。あのふたりが動いているんだからそれは当然だけど、所詮は手のひらで踊っているに過ぎないのかもしれないと思った。必ず捕まることが前提になっている鬼ごっこ。捕まっても鬼の交代というような、生易しいものじゃないけれど。

 ざくざくっ。
 男たちの足音が近づいてくる。普通なら、聞こえないほどその音は最小限に消されていて、だけど、わかる。彼らの息遣いも、確実に迫ってくる、気配も。
 見つかってしまったら、逃げ切る自信なんてない。想像以上の人間が動いている。それに訓練されている彼らの手からひとりで抜け出せるほどの力も、ない。怖くて、たまらない。

 ――― キリちゃん。勇気だして。

 湿った風が、髪を揺らす。誰よりも、あたたかく。優しい声が聞こえた気がした。それは、ひとりじゃないと手を繋いでくれているような、ぬくもりをくれて。怖くて震えている身体に、力をくれる。ぐっとしゃがんでいた身体を起こして、いつでも走り出せる状態にする。見つかったら、とにかく全速力で駆け抜けよう。行ける所まで。そう決意して、足に力を入れる。

 途端、どさっ、どさどさっと何かが地面に倒れる音が聞こえてきた。それはすぐに止んで、周辺が静かになる。近づいていた足音や気配は消えている。代わりに、――― ひとつだけ。まるで空気に溶け込むような、自然で柔らかい気配が感じられた。
 「 ――― いるんでしょう?」
 はっと息を呑む。今まで聞いたことのない、声。暗闇の中で、それはとても、穏やかに。優しく響いてきた。だれだろう、と警戒しながら、息を潜める。
 「ひなさんの、ご依頼で。あなたを助けに来ました」
 続けられた言葉に愕然となる。
 (ひな ―― 。)
 たったひとつの、心の支え。どうして、その名前を。
 「時間がありません。出てきて下さい。どうか、僕を信じて」
 切羽詰ったような言葉の羅列とは違って、穏やかな口調と、たったひとつの大切な名前に、疑うことも忘れて、思わず立ち上がって姿を見せていた。
 ああ、と気づいたように、暗闇の中でまるで太陽の光のような、きれいな金色の瞳が細まる。だけど、それ以外は、頭からすっぽりと黒衣を纏っていて、闇に溶け込んでいた。彼は手を差し出してくる。
 「扉を……。鳥かごの扉を開けてほしい。それが彼女のご依頼です」
 あの話は、ふたりだけの秘密。他には誰も知らないはず。だからこそ、信じられると思う。だけど、もしも ―― 。

 ――― 勇気を出して。

 再び聞こえてきた声に、躊躇する理由はなにもなかった。


 あー、うん。もういいよ、君たち。全員、処刑。
 肩を竦めてそう判決を下してから、耳に押し当てていた携帯の電源を切った。役立たず、と思うだけでは抑えきれずに吐き捨てる。
 「……おい。あの部隊を作るのはそれなりに、労力と金がかかってるんだぞ」
 不満そうに、腰掛けていた机の持ち主が、座っているソファから声をかけてきた。
 「一時間もやったのに、女の子ひとり捕まえられなきゃ無駄でしょ、無駄無駄」
 それとも、とにやりと口端をあげて、笑みを浮かべる。投げかけた視線の意味を察したのか、すぐに肩を竦めてみせた。
 「聞くまでもない。許すわけないだろ」
 たった二言でも、長い付き合いで、その言葉に含まれている意味はすぐに理解できる。そうそう、と頷いて、寄りかかっていた机から身体を起こして、更に奥にある窓に向かう。見下ろす景色は、光が揺らめいていて、まるで星のようにも思える。だが、すぐにそれを言ったのが彼女で、自分はそんなにロマンチックじゃなかったと呆れた。彼女に感化されるのは心地いいけれど、それが油断に繋がったのかもしれないと思うと、忌々しい。
 「まさか、俺らの足止めに陽子(ようこ)さんが出てくるとは思わなかった」
 驚きが含まれた声に同意する。男ばかりを警戒していて、まったく予想していなかった存在に意外な足止めを食らって、大切な宝珠を手の中から逃したばかりか、追いかけることもできなかった。電話で命令がだせただけだったけれど、それも役には立たなかった。意外な存在は常に先を見通していた自分たちの目を曇らせ、後手にまわることを余儀なくされた。
 「俺たちには一度しか通じない手だけど、だからこそ向こうさんも慎重になってたんだなー。困ったね、これはどうも」
 腹立たしい。別のことなら、笑ってそれこそ興味津々とゲームにのってやるところでも、今回のことは、遊びにはならない。俺たちの一番の禁忌に触れてしまった。相応の、いや。それ以上の代償は支払わせる。
 「一紀。彼女が自分から戻ってきたら、どうする?」
 不意に問いかけられて、思いもがけない言葉に目を見張る。
 ( ――― どうする?)
 反芻して、苦いものがこみあげてくるのを感じた。それを覆い隠すように、恐らくいま自分は、嘲笑を浮かべているだろうけれど。
 「自分からであろうと、捕まえようと。逃げ出したことには代わりないと思わない?」
 大事なのは、その点につきる。あれだけ、逃げたらどうなるか教えておいてあげたのに。あれでもまだ、優しく。遠まわしだったのに。
 「それなら、陽子さんを初めとして、この計画に関わった奴らは殺すなよ」
 そう言われて、ああ、なんだと思った。どうやら、釘を刺したかったらしいと納得して、苦笑した。いつもは自分こそが宥める側なのに。不思議に思って、外の景色から視線をはずして振り向いた。ソファにゆったりと座っている自分と同じ顔の男は、唯一違う、闇そのもののような目に穏やかな光を湛えている。
 「もちろん。それは彼女を取り戻してからの楽しみにしとくって。けど零(れい)くんは随分と ―― 」
 冷静だね、と言おうとして気づいた。その纏う雰囲気が、これ以上ないほどの怒りに染められていることを。自分も同じくらいに怒り狂っていたから、感じ取れなかっただけだ。
 「イチ。生涯、二度はないことを刻みつけさせるぞ」
 地を這うような、低い声に同じ存在であっても、圧倒される。いつもなら、彼女を想って宥めるところだけれど、今は同じ気持ちだから頷いて、そのための計画を練り始めた。

2009年06月23日

01:始まりの朝(1)

―― 海の匂いは好きじゃねぇな。
 暗闇の中でも目立つ派手な赤色の大型バイクに寄り掛かりながら、目の前で月明かりに照らされている海に視線を投げる。煙草を銜えてなかったら、舌打ちを鳴らしていたところだ。潮風もバイクにいいとは言えない。
(明日は仕事も休みだから、久々にメンテナンスするのも悪くないな。)
 最も、今夜の計画が上手くいけば、というところだろう。
 計画を立てたものの、すでに手から離れてしまった今は、どう転ぶかは実行者にかかっている。腕に嵌めている時計を確認する。丁度針が三を示したところで、自動車のエンジン音が聞こえてきた。

「相変わらず、正確なヤツだ」
 もう少しルーズなら可愛げがあるものを、と苦笑いしながら寄り掛かっていた背中を起こして、バイクに向かい合う形で止まった自動車に身体を向ける。
 黒のBMWは持ち主の性格を思わせるように埃ひとつなく暗闇の中でもわかるほどキレイにしていて、月明かりに反射し輝いている。ドアが開いて、黒いスーツを纏った青年が降りてきた。美の化身とでもいうのだろうか。整った顔に鼻や目、唇がバランスよく位置し、一見性別不明なほど美しく見えるものの、表情はぴくりとも動かず、ただ肩よりも下あたりまで伸ばされた長い黒髪が風に揺れていた。出掛ける前は、ひとつに結んでいたなと思い出した。光加減で金色に変わる目立つ自分の髪とは裏腹に、艶やかな黒一色のその髪を羨ましく感じていた。もっとも、自分の男らしさがある顔つきは気に入っているし、それをネタに目の前の男をからかえるのは愉しみのひとつだが。

「時間通りですね」
 表情と同じく平坦な口調で告げられ、にやりと笑みを返す。
「俺の計画が完璧な証拠だろう」
「何とでも言ってください。それより、部屋は用意できているんですか?」
 自慢げに吐いた言葉はあっさりと一蹴され、話題を変えられた。つれないね、と肩を竦めて、金色に煌く瞳に睨まれる。それに苦笑が浮かんだ。
「ああ。トラップを何百通りもかけて、そのなかにひとつだけ準備しておいた。いくら白銀の双頭であっても、そう容易くは見つけられないさ」
「見つからない、というわけにはいかないでしょうね」
 相変わらず表情は浮かんでいないものの、口調に物憂げな調子を感じ取って、思わず目を瞠った。それに気づかれる前に、すぐに言葉を返す。
「無茶言うな。俺はそこまで自分を過大評価できねぇよ。白銀のアニキは直感力に優れ、統率力や判断力がずば抜けてるし、弟は一見柔らかい印象に誤魔化されてしまうが、俺が世界トップに認めてもいいほど頭がキレる。今回俺が裏をかけたのは、奇跡だってくらいな」
「……そうですね。そうでなければ、彼女を隠し捕らえたままではいられなかったでしょう。彼らだからできた、僕もそう認めてはいます」
「だが?」
 頷きながらも、言葉が続きそうだと先を促す。
 視線を暗闇に染まる海へと向け、その先の何かを探すかのように目を眇める。無表情なはずのその横顔にわずかに憐れみが浮かんでいるように思えた。同情、と決めつけるには、青年が感傷を抱く性分ではないことを知りすぎていた。年齢のわりに大人びている。そうであることを求められているのだから仕方ないかもしれないが、こうした表情を目にすると、胸のどこかでほっとしている自分を感じる。
「ですが、陽子さんや陽菜さんの言うように、彼女は羽ばたくべき存在でしょう」
 結局は写真や映像を通してしか見ることがなかった今回の標的である少女の姿を思い浮かべる。
 白銀家の双頭と呼ばれる双子が大切に隠している宝珠。
 最初に聞いたときは儚く弱々しい雰囲気を想像したものだが、陽子さんや陽菜の話から聴くたびにその印象は心根の強い、頑固な少女へと変化した。確かに言われて見れば、写真で見るぱっちりとした黒い瞳には気の強そうな光が浮かんでいた。本来は長い茶髪も、双子のどちらかは忘れたが、長い髪が好きだと言われてその次の瞬間には自分ですっぱり耳のところまで短く切った、と陽菜が教えてくれた。その際、相当の罰を与えられたらしい。双子は直接的体罰を与えることはしないが、まるで真綿で首をじわじわとしめつけるような、精神的苦痛を与えるのだそうだ。
 それを思い出して、胸糞悪い気分になった。たとえ地位や権力があったところで、誰かを思うとおりにしていいはずがない。

『ともにぃ。おねがい。キリちゃんを助けて。おねがい。キリちゃんはあんなところにいちゃいけないの。陽菜はキリちゃんの笑顔がみたいの。おねがい!』

 幼い陽菜が精一杯の気持ちをぶつけてきた。
 泣きじゃくりながら、たすけて、と。キリちゃんをたすけて。そう繰り返し、全力でぶつかってきた。
(あんなふうに言われて、動かなきゃ男じゃねぇよな。)
 女の子ひとり助けられず、小さな女の子の本気のお願いを聞き届けられなくて、男である意味がない。そうして、実際に彼女に会った向かい合う青年の言葉に自分が間違っていなかったことを確信する。
「陽子さんの頼み、陽菜の願いだ。俺たちが飛ばしてやろうぜ」
 力を込めて言えば、青年の目が向けられる。夜の闇でもきれいに煌く金の瞳には強い光が浮かんでいて、それが同意であることは長い付き合いからわかった。表情は変わりがないのに、今夜は容易く青年の心を見透かせることに好奇心が疼く。
「気のせいか、おまえも随分この件は乗り気だな。どうしてなんだ?」
 珍しい、と含んだ口調に、青年は再び視線を海へと戻しながら、更に珍しいことに嬉しげな響きがある声を放った。
「それは、秘密です」
 思いがけない言葉を返されて、銜えていた煙草がぽろりと落ちた。

01:始まりの朝(2)

 目の前にそびえ立つビルの壁にほとんど遮られて、窓から入り込む光はほんの一筋だった。今までは陽の光が溢れるほど差し込んでくる部屋にいたけれど、そのときよりも今見ている一筋の光は霧華の心までも照らしてくれる。部屋も狭いのに、とても新鮮で自由な空気を感じられた。ほんの少し、これから何が待ち受けているかと不安もあるけれど、やっぱり喜びが大きい。ずっとこの瞬間を待っていたのだから。
 ふと気配を感じて振り向いた。
 部屋は硝子仕切りで区切られていて、それを通して誰かがいるのは一目でわかる。相手も霧華が気づいているのはわかっているはずなのに、軽く仕切りを叩いた。
「開けてもよろしいですか?」
 丁寧な口調で許可を求められて戸惑う。
「あ……は、はい!」
 部屋に入られるのに許しを求められるなんて初めてで、返事が詰まってしまった。
 がらりっ、と硝子しきりが開く。
 佇んでいたのは、暗闇の中で霧華に手を差し伸べてくれた青年だった。
 整っている美貌は曲線的で女性のような顔つきをしているが、表情はどんな感情も浮かんでいるようには見えなかった。唯一、暗闇の中で鋭い光を見せていた金色の瞳も今は、柔らかい。あのとき風に靡いていた闇に溶け込むような漆黒の長い髪は背中で一つに括られていて、黒いスーツを身につけていなければ、女性と見間違えそうで、スーツを着ていても男装の女性で通りそうな面差しだった。
 水城(みずき)悠貴(ゆうき)という名前だと、この家に連れてこられて初めて教えてくれた。他の説明は後ほど、ととりあえず部屋まで案内されたところだった。部屋を見たら居間に来て欲しい、と言われていたことを思い出して慌てて言う。
「……ごめんなさいっ。いま、あの、そっちに行こうと!」
 謝って踏み出そうとして、かまいませんよ、とほんの少し苦笑交じりの声がかけられる。彼はしきりを開けただけで部屋には一歩として踏み入れる様子はなかった。ただそこに立ったまま言う。
「そう恐縮しないで下さい。僕は、少なくともこれから貴女と会う人間は、強制したり、貴女を閉じ込めたりはしないのですから」
 ぎくりと身体が強張る。
 自由になったはずなのに、その言葉でまだ自分のすべてに鎖がからみついていることを自覚する。引きずられ、深い暗闇へ堕ちていきそうな恐怖が一気に襲い掛かってきた。
「霧華さ ―― 」

「キリちゃんっ!!」

 どんっ、と立っていた悠貴を押しのけて、なにか小さな塊が勢いよく走りこんできた。

「っ、!」
 全身でぶつかってきた塊を受け止めきれずに、わっ、と床に倒れてしまう。
「キリちゃん! キリちゃん! 会いたかったよ、キリちゃん!」

 ――― キリちゃん。
 なんの裏の含みもなくそう自分を呼ぶ声。
 なにもない世界で、さっき見た一筋の光そのものだった、声。純粋で優しくて、凍り付いていく心を包み込んでずっと、守ってくれていた温もりのこもる、声。
「……陽菜?」
 信じられなくて。
 その声を間違うはずがないのに、こんなにも近くで聴けることがとても現実とは思えずに、腰にしがみついたままぎゅっと抱きついている幼い少女を見下ろす。途端、少女は顔をあげた。
 淡い薄茶のやわらかい髪、小さな鼻に唇。涙を浮かべている青みがかった瞳に胸がいっぱいになる。
「陽菜!」
「キリちゃん!」
 こみあげてくる、熱い感情。
 ずっと、会いたかった。唯一、心の支え。
 溢れてくる涙が堪えきれずに頬を伝うのを感じながら、強く抱き締め返す。こうして抱き締めることができるなんて思いもしなかった。

「……あの、すみません」
 申し訳なさそうな声に、はっと我に返る。

 口調とは裏腹に相変わらずの無表情で悠貴が佇んでいた。ほんの少し居心地が悪そうにしているように見える。視線が僅かに揺らいでいることに気づいて、急に恥ずかしさがこみあげてきた。その空気を読んだように、陽菜も身体を離したものの手を繋いでから振り向いた。
「ゴメンね、ゆーくん。キリちゃんが居間にくるまでがまんできなかった」
 悪戯っぽく笑って首を傾げる。その言葉に疑問を感じて、陽菜を見下ろした。
「えっ、陽菜。居間で待ってたの? そんな気配なかったけど……」
「へへっ。キリちゃんをびっくりさせようと思って、かくれて待ってたんだー。気配はね……」
 子どもが秘密をコッソリ教えてくれるような、楽しげな笑顔を浮かべる陽菜の言葉は途中で別の声に遮られた。
「俺が隠してやったんだって、おい。こんなとこで立ち話じゃなくて、向こう行こうぜ。美味いお菓子と珈琲も淹れたからよ」
 悠貴の後ろからヌッと現われたのは、やけに体格の大きい男性だった。窓から入り込んだ日差しが丁度彼に当たって、髪が煌いている。切れ長の目は深緑を思わせる色に染まり、からかうような光を浮かべていた。白いTシャツに膝の擦り切れた薄青のジーパン姿は黒いスーツに身を包む悠貴とは対照的なのに、ふたりが並んでいるととても自然なものに思える。
「隠してやったって……」
「いいから、キリちゃん。あっちいこうよ! まだまだ会わせたいひともいるんだから!」
 戸惑う私に構わず、陽菜は明るくそう言って、繋いでる手を引っ張った。その強さに導かれるように頷いてついていく。
 部屋を出て廊下に出る。男性を先頭に、悠貴、陽菜と続いていくと、途中で悠貴がトイレとお風呂の場所を説明してくれた。ついでに此処があるマンションの一室だということも。霧華に最初に教えた部屋以外にはあと、三つほど部屋があるらしい。
 居間に入ると、太陽の光が全面に注がれているソファが見えた。三人掛け用の淡い紺色のソファに、一人掛けの肘置きつきの椅子、間には硝子テーブルがあって、対面には段上がりで二人ぐらいが寝転べる畳みが敷かれてあった。
 適当に座ってください、と言われて、陽菜と一緒に三人掛けのソファに座る。悠貴は一人掛けの椅子に、もう一人は畳みにあぐらをかいて座った。 四人が座ったと同時に、ひとり男の子が台所らしき場所からトレイを持って出てきた。
 黒に近い茶髪は短くかりあげられていて、それよりも明るい薄茶の目がじっと私を見ていた。中学生くらいの年齢で、クマの絵柄がついている黄色のエプロン姿がなんとも可愛らしい。ほのぼのとしている彼の印象に見入っていると、トレイからそれぞれマグカップを渡していた彼に差し出された。慌てて受け取って、お礼を言う。少年はぺこり、と頭を下げて、ソファでも畳でもなく、敷いてある長めのふわふわの毛が織り込まれている絨毯に直接座った。
「では、とりあえず全員揃ったので紹介をしましょう」
 口火を切って、悠貴が言った。
「まずは珈琲をもってきてくれた彼が、高階(たかしな)明(あきら)くん。年齢は16歳です。趣味は家事一般、特技は簡単に言ってしまうと、犯罪行為でしょうか」
「…………悠貴さん」
 あっけらかんとした口調で言う悠貴に不満そうな声をあげるものの、それ以上はなにも言わず、ただ非難めいた視線を悠貴に向けていた。
「すみません。他に言い方はわからなくて。詳しくは実演されるまでのお楽しみということで」
「んで、俺は明の兄で巴(ともえ)。趣味はバイクで特技は、まぁ、パソコンとか機械関係だな。何でも作るのは好きだから、ほしいものがあったら言ってみろ。低価格で作ってやるぜ」
 そう言ったのは、畳に座っている男性だった。にやりと楽しげに笑みを浮かべて、手を挙げる。
「ともにぃ、タダじゃないのー?」
 陽菜が隣で拗ねるように言った。
「ばぁか。世の中そんな甘くないっての。陽菜ちゃん、タダで何かして欲しけりゃ、いい女になって、俺に媚でも売るんだな。そしたら考えてやるぜ」
「巴……」
 呆れたように溜息をつく悠貴に向かって、巴は「冗談、冗談」とパタパタと手を振り豪快に笑った。
「はいはーい! 次はわたしね。キリちゃんの妹の陽菜でーす! 特技は……」
 元気よく手を挙げて、自分の紹介をする陽菜に苦笑する。

 陽菜とは血は繋がっていない。むしろ、陽菜は白銀当主である零くんやイチくんと母親違いの兄妹になる。正妻の彼らとは違って、愛人の娘である陽菜は立場は弱かったものの、唯一の娘として、当主には可愛がられていて、だからこそ傍にいることが許されていた。まっすぐで明るい陽菜が可愛くて、一緒にいるのが楽しかった。あの頃はまだ外に出ることも許されていたから、ふたりでいろんなところに出掛けては、遊んだ。本当の姉妹のように ――― 4年前、当主が死んでしまって、あのふたりが跡を継ぐまでは。

「……っ、キリちゃん!」
 大きな呼びかけと、腕を揺すられて、ハッと我に返る。陽菜が気遣うように見上げてきているのに気づいて、慌てて首を振った。
「大丈夫、なんでもないよ」
「それならいいけど。次はキリちゃんのばんだよ」
 まだ疑うように眉を顰めていたけれど、小さく肩を竦めて陽菜が言う。その言葉に周囲を見回すと、全員の目が霧華に集まっていた。多くの視線に晒されることは慣れてなくて、どきどきと胸が高鳴る。
「月花(つきはな)霧華(きりか)で……えっと、」
「キリちゃんの特技は気配を読むことでーす。ちなみに好物は白和えとか白身魚のフライに卵焼きでしょー。あとねー」
「ひっ、陽菜!」
 何を言えばいいのかわからずに戸惑っていると、陽菜がはいはーいと手を挙げて代わりとばかりにすらすら喋っていく。口を塞ごうと手を伸ばしかけて、プッとふきだす笑い声が聞こえた。視線を向けると、お腹を抱えて巴が笑っている。かぁっと頬に熱が集まるのを感じた。
「わ、わりぃ。でも、その好みは、まったくもって悠貴と一緒でさ……」
 笑い声の合間に、聴こえた言葉に目を瞠る。
「巴……どうにもあなたという人は」
 悠貴が呆れたようにはぁっ、と溜息をつくと同時に、ごんっと重い音が聴こえた。いつの間にか巴に近づいていた明が手にしていたトレイで彼の頭を叩いたらしい。
「……ってぇ! こらっ、明っ!」
「悠貴さんを笑うからです」
 睨み付ける巴にさらりと返して、明は再び座りなおした。巴の視線なんて欠片も気にすることなく、むしろ満足感に浸っているようで、その様子に今度は思わず霧華がふきだした。笑いがこみあげてくる。
「きりちゃん……」
 陽菜が驚いたように名前を呼ぶ。
「ごめん、だって面白くて……」
 どうにか笑いを堪えながら言うと、陽菜の顔もパッと明るくなって同じように笑い出した。気がつけば、巴もどこか面白そうに笑っているし、明も嬉しそうに微笑んでいる。悠貴もわずかに頬を緩めているのが見えて、霧華の胸に温かい想いが広がっていく。
(こんなに笑ったの、いつ以来だったかな……。)
 まだ自分は笑うことができる、ということを思い出せたことが嬉しかった。
 ――――自由。
 物心ついたときから憧れていたもの。
 手に届かないものだと思ってた。どんなに手を伸ばしても、あの空に触ることすらできないんだと。それでも、今はいつかあの空の下で自由に飛びまわれるような、そんな希望が胸に生まれていた。

2010年02月25日

01:始まりの朝(3)

 ―――タイミングが合えば、出られる。
 この部屋に向かう気配との距離を測りながら、霧華は扉のすぐ傍で身体をかがめた。いくら男女の差があるといっても、隙を突けばわずかなりともチャンスが生まれる。ほんの一瞬でもそれを得られれば、特技をうまく使えば逃げられる可能性がでてくるはず。ダメだといわれたからと言って、素直に頷き従えるほど霧華の性格は大人しくはない。
(……あと、5歩……4、……2……)
 気配がドアの前で止まった。
 夕食の時間。配膳は決まった時間に決まった人間が持ってくる。イチ君の部下で、男性。言い含められているのか、入室して食事を置き、ちらりとも霧華の顔を見ることもなく、淡々と準備して出て行く。最初の頃は声をかけていたけれど、返事もしないまるでロボットのような動きに諦めた。それに下手に親しくなって、零君に目をつけられたら相手がどんな目に遭わされるかは何度も突きつけられたから、できる限り近づかないようにしていた。霧華が動けば、誰かに迷惑がかかる。それくらいなら、大人しく部屋で本を読んでいるしかない。それでも、外に出たいという気持ちは膨れ上がる一方だった。大人しくしているフリをしながら、どうにか出て行くタイミングを探していた。それが、このチャンス――。
 耳を澄ませるまでもなく、ピッピッ、と小さな電子音が鳴る。パスワードを打ち込んでいる音。7回。最後の音が鳴ってから、1秒の間があって扉が開く。
――シュッ。
 軽快な音ともに扉が開き―――。
 霧華はそのタイミングで、勢いをつけて飛び出した。全身で相手を押し出す。
「――――?!」
「っ、ごめんなさい!」
 たたらを踏んで困惑する相手をかえりみずに、部屋を走り出ようとして、咄嗟に腕を掴まれた。予想外のことに息を呑む。相手は食事を両手に抱えていて、とてもそんなことができる状態じゃないはずなのに――。
「そんなに慌ててどこいくの?」
 かけられた声にハッと息を呑む。
 ギュっと強くつかまれた腕に痛みが走る。
 恐る恐る振り向くと、イチ君がにっこりと笑顔を浮かべて佇んでいた。

 腕をつかまれたまま、引きずるように部屋の中に戻されて、ベッド以外の唯一の家具であるソファに座らされた。向かい側にある窓硝子はけして開くことも、なにをしても割れることもない頑丈な造りで、入り込めるのは陽の光だけ。その光を背に目の前に立つイチ君の金糸の髪がきらきらと煌く。身に纏う雰囲気は穏やかなものなのに、ゆったりと細められたダークブラウンの目にはそれを裏切るように鋭い光が浮かんでいた。突き刺さる視線に、身動ぎひとつ、できなくなる。
「――鎖、つけたままにしておこうか?」
 じゃらり、と手にしている先端に銀の枷がついた鎖を弄びながら、イチ君は愉しそうに笑った。
 三日前に外されたそれは、長かった髪を自分で切ったときにお仕置きと言いながら、零君につけられた。両手両足ともにつけられて、思うように動けずにつらかった。食事はふたりに交互で食べさせられるしかなく、お風呂もムリヤリ入れさせられた。身体を洗われたときには羞恥や屈辱に支配されたけれど、抵抗するほどにそれを嘲笑うように精神的苦痛を与えられることを身を持って思い知らされた。二度としないと誓って、ようやく外された、それを再び目の前にかざされて、血の気が引いていく。
 咄嗟に出てこようとした拒絶の言葉が喉に張り付いて、呼吸すら苦しくなる。
「っ、」
 恐怖に呑まれる自分が悔しくて、眦が熱くなる。それでもイチ君の前で涙を見せたくないという意地に、手のひらをぐっと握りこんだ。
「あのねぇ、霧ちゃん」
 幾分か呆れたように嗤って、イチ君は軽やかな動きで隣に座る。いつもそうだ。彼のひとつひとつの動きは優雅で、流れるような動きは隙がない。重みで傾こうとした身体に慌てて力を込めて、その場に縫い止めた。だけど、そうすることがわかっていたみたいに、肩に手を回してくる。馴れ馴れしい雰囲気は微塵もなく、まるでそうすることが自然であるような空気が漂う。大半の女性はどんな心情であっても、うっとりと身を任せてしまうかもしれない。けれど、イチ君の本性を知っているからこそ、そうしてしまうことはできなかった。ただただ警戒心が募る。
 短くなった髪に触れる手は、甘やかすかのように優しい、のに。
「諦めの悪い霧ちゃんにほんの少し、ネタバラシしてあげようか?」
 思いがけない言葉に、ハッとイチ君の顔を見る。触れている手と同じ、優しく微笑んでいることに、怪訝な顔を向ける。
「なにを……?」
「この部屋、窓ガラスはすべて特注の防弾硝子で内外ともに何かをぶつけたりはもちろん、普通の弾丸を使ったって割れない。ドアも電子ロックで二時間ごとに変わるパスワードを打ち込む必要があって、それは僕と零君しか知らないし食事の用意をする部下に直接そのときに教えるからそう容易くは漏れない」
「それはここに入れられたときに聞いた!」
 ――――だから、この部屋から出ることはできないし、逃げられない。
 その事実に何度打ちのめされてきたかわからない。
 苛立ちのまま叫べば、まぁそうだね、と面白そうに笑って肩を竦めると、秘密を打ち明ける子どものようにますます楽しそうに告げた。
「他にもね、監視カメラが部屋全体を映してるんだ。死角を作らないよう、あますところなくね」
「えっ……」
「だから霧ちゃんが怪しい動きをしてたのなんて丸わかり。カメラ担当がね、僕に連絡くれたんだよ。見てたら、なにをしようとしてるのかわかったから、僕がきたんだ」
「監視カメラ……?」
 思わず周囲を見回す。そうとわかるようなものは見つからない。
 イチ君の冗談――?
 だって、部屋全体って。そんなものがもしあったら、だって着替えとか。お風呂とか――。
 想像して、さぁっと血の気が引いていくのを感じた。
 眩暈を覚える。
 冗談であってほしい。そう心から望むのに、この部屋に閉じ込められたときからイチ君は冗談のような本気しか言わない。
 血の気がなくなった私を見たイチ君は考えを見透かしたように苦笑した。
「ああ、それは大丈夫。カメラ担当者は女の部下だから。僕たちが大切な霧ちゃんのそんなところを他の男に見せるわけないじゃない。むしろ、見てたら目を抉り出してるよ。――まぁ零君なら、即殺してるだろうけど」
 そんなことをいいたいんじゃないっ。
 けど、当然デショ、とばかりに言うイチ君は私の言いたいこともわかっていながら言ってる。だから、言っても無駄だと閉じ込められて数年経てば理解してた。
 こみあげてくる溜息さえ、飲み込むしかなくて。それでも代わりに、熱い感情になって溢れてくる。意地でも、そう思っていたのに、頬を流れていく涙を止める方法がわからない。
「……外に出たいの、お願い。イチ君」
「霧ちゃん、僕の前で泣くのはやめたほうがいいと思うよ。そそられて、抑えが効かなくなる」
 顔をあげると、じっと見つめてくるダークブラウンの瞳は甘い熱が浮かんでいる。お風呂に入れられたときに時々過ぎっていた感情。いつ犯されるのかびくびくしていたけれど、ふたりの触れてくる指は慎重で、性的な意味を感じさせるようなものじゃなかった。それでも触られること自体、嫌悪感があったから、精神的苦痛だったのは変わらないけれど。
 今もイチ君は、その熱を吐き出すように溜息をついて、くしゃりと自らの髪をかきあげる。
「……霧ちゃんが十八才になるまで、後一年もつか自信なくなりそー」
 ぼそりと拗ねるように呟かれた声は小さくて、微かしか聞き取れなかった。
「イチ君?」
 なんて言ったの、と聞こうとして。
「――イチ、お仕置きはすんだのか?」
 冷たい声に遮られて、ハッと扉のところに視線を向ける。
 イチ君の双子の兄――零君が相変わらず息苦しささえ感じさせる圧倒的な威厳を身に纏い、佇んでいた。そっくりの容姿をしているのに、表情豊かなイチ君とは違って、感情ひとつ浮かぶことがない能面のような顔はだからこそ、怜悧でよりキレイなものになって、近寄りがたく思わせる。イチ君のダークブラウンの瞳が相手を翻弄するように愉しげに煌くのとは反対に、彼の黒い瞳は目の前の相手を引きずりこむような深い闇を湛えていた。
 じっと見据えられて、嫌な予感を覚える。背筋に冷たいものが走り抜けた。
 同時に思い出した。自分がこの部屋から逃げ出そうとしたこと――。
「零くん……」
「そうそう、新しく開発したんだ。けっこうきついよー」
 明るい口調で言われるには物騒な内容に、身の危険を感じて咄嗟にイチ君から逃げようとして――うつ伏せに押し付けられた。
「やだっ、放して!」
「まぁそういわず。身体に傷をつけるのは問題外だからね。とはいっても鎖だと僕たちの理性が決壊しちゃうほうが早そうだから、頑張って開発したんだよ。何度も実験してようやく完成したんだ」
 ぐっと手を背中に回されて、つかまれる。
「――いやっ!」
 おしおき、という言葉。愉しそうなイチ君。長い付き合いだからわかる、零君の怒りを押し殺したような雰囲気。それだけで絶対にいいことじゃないのはわかる。
 逃げようともがいても、身動ぎひとつできない。
 白銀家特有の教育姿勢で、武芸一般を始め、武器はもちろん、暗殺訓練を受けて零くん共々トップの成績を修めていたと聞いたことがあるイチ君は容易く抑えこんでくる。
 カチリ、と小さな音が鳴って、両手首。それから両足首にひんやりとした冷たい感触があった。
 すぐに抑えこんでいる力が緩んで、慌てて起き上がる。ソファに座ったまま、両手首をかざすと細い金の環っかが嵌められていた。ハッと足を見下ろせば、そこにも同じものがある。
「これ……」
 手で触る。環はきれいに一周されていて、止め具がついてないことがわかった。
 ソファの前に立っていたイチ君が視線を合わせるように、スッとしゃがんだ。つけられた金の環の理由を尋ねようとして、彼はにっこりと笑う。
「説明するよりは実際に体験してみようね」
 そう言った途端――。
「きゃぁ――――っ!!!!!」
 両手足首から電撃が走り抜ける。強い痛みが全身を襲う。
「やぁ――っ、痛いっ、やだ、いやぁっ――!」
 痛い。痛い――っ。
 全身を貫く衝撃に叫ぶことしかできなかった。

01:始まりの朝(4)

「……イチ。そろそろ、いいだろ」
 どれくらいの時間経ったのか、意識を失う寸前にそう声が聞こえた。それを合図にして、全身を襲っていた電撃のようなものが消える。自分がどんな状態でいるのかもわからず、ただ叫び続けてたせいで、喉がひりひりと痛んでいることだけが感じられた。全身には力が入らず、目を開けることさえ億劫でぐったりとなる。
 さらり、と髪に触られて優しく撫でられた。どっちの手だろう、と一瞬考えて、すぐにどっちでも同じだと考えることを放棄する。痛みで流した涙の跡に、苦しくて悲しくて溢れ出した涙が零れる。
「霧華」
 顔にはでないけれど、目を閉じていればわかる。名前を囁く声は優しい。それなのに、告げられる言葉は胸を突き刺す。
「おまえは特別だが――自分の行動には責任を持て。おまえが逆らわなかったら、俺達もこんなことをしなくてすむんだ」
「そうだよ、霧ちゃん。僕たちから逃げられるなんて考えるだけムダなんだよ。君は永遠に僕たちのものなんだから」
 永遠に――――。

「――っ!」
 目を開けると、見慣れない天井が目に入った。いつも見上げていたのは間接照明が薄ぼんやりと照らしていた天井。今は、暗闇に閉ざされていて、ふと隣を見れば、陽菜の寝顔があった。愛おしい存在は規則正しい寝息や温もりを感じても夢を見ているようで。
 息苦しさを感じて、自分が息を止めていたことに気づいた。喉元を手で抑えてはっと息を吐く。息苦しさが治まると今度は、手のひやりとした冷たさを感じて慌てて喉から放した。
 今もまだ、あの環がついている気がして手首を見る。
 なにもついてないことを確認して、ほっと胸を撫で下ろした。
「っ、きり……ちゃ、……だぁいす……きぃ」
 聞こえてきた声に視線を向ける。
 んーっ、と言いながら陽菜がぎゅぅっと抱きついてきて、胸が苦しくなった。
(大丈夫――もう、大丈夫でしょ。)
 強く言い聞かせて、陽菜の頭をそっと撫でがら、やわらかな頬に口付ける。
「私も大好きだよ、陽菜」
 夢の中にいる陽菜にも聞こえたのか、ただの偶然かもしれないけれど、彼女の顔がへにゃりと笑顔になって、思わず頬が緩む。愛おしい気持ちが溢れてきて、泣きたくなった。

2010年04月27日

01:始まりの朝(5) >見果てぬ夢(仮)

 陽菜を起こさないように気をつけながら、ベッドをそっと降りて足音を立てないように部屋を出て行く。
 廊下はフローリングで、ひんやりと心地よかった。
 向かい側には巴、その隣には明の部屋。私と陽菜に準備された部屋の隣に悠貴の部屋があると説明された。通り過ぎて、最初に皆で自己紹介をしたリビングに向かう。仕切りになっている扉を押し開けると、さらりとした風が頬を撫でていった。
 リビングの更に奥。カーテンがわずかに揺れていた。ベランダに続く窓が開いていることに気づいて、意識を集中させる。
(……この気配は悠貴さんだ。)
 そっと近づいていくと、苦笑の滲んだ声がカーテン越しに聞こえてきた。
「そんなに警戒しないでも大丈夫ですよ。遠慮しないで、どうぞ」
 その言葉に後押しされて、カーテンを避けてベランダに足を踏み入れる。彼は柵に寄りかかって、面白そうに視線を向けてきていた。結んだ黒髪が流れていく風に靡いていて、金色の瞳が月の光を受けて煌いている。片手に持っている琥珀色の飲み物と同じように。
「――眠れないんですか?」
 気遣う声は、霧華には優しく甘く聴こえる。
 初めて会ったのは昨夜。
 それなのに、彼の気配は懐かしさを感じる。ずっと前から知っていたような。
(有り得ないけど……。)
 物心ついたときから、傍にいたのは陽菜とイチ君と零くんだけ。まだ白銀の前当主が生存中は、使用人や護衛のひとたちと関わる機会はあったけれど、誰もが自分より幾つも離れた年上だった。前当主が亡くなってからは、閉じ込められて、イチ君と零くん以外とは接することは勿論、だれとも目を合わすことも許されなかったから。
 さっき夢から覚めたときのように、息苦しさを覚えた。
 柵に背中を預けている彼とは対照的に、柵を握って空を見上げる。ビルに囲まれているから広くはないけれど丸い月が浮かんでいるのはわかった。
 思わず、手を伸ばす。
「……いつも硝子越しに見る月だったんです。今夜は手を伸ばせば届きそう」
「霧華さん……」
 悲しみが含まれた口調で呼ばれたことに驚いて、月から視線を移した。
 感情がこもっていた口調とは裏腹に、悠貴さんのキレイな顔には表情が浮かんでいない。零くんも、喜怒哀楽を表情には表さなかった。トップに立つものは常に感情を覆い隠し、冷静でいること。そこにいるだけで一瞬にして場を支配する零くんには畏怖を感じていた。逆らうことの許されない恐怖。
 悠貴の無表情はそれとは違う。
 確かに感情は浮かんでいないけれど、なんとなく、霧華には彼の喜怒哀楽が伝わってくる。気遣ってくれる優しさも、今伝わってきたような悲しみも。だからどんなに表情がなくても、怖いとは感じない。
 まっすぐ見つめてくる金色の瞳に、絡めとられてしまうような気分になる。甘い熱に、どきどきと胸が鳴る。
「もう、貴女は自由なんです。月に触りたいというなら、連れて行きましょう。空を飛んでみたいというのでしたら、飛行機でも、飛行船でも、気球でもお好きなものを用意しますよ」
 本を読んでいたときに想像した。月に行って、でこぼこのクレーターを触ってみたい。飛行船に乗って空を旅してみたい。小さなクルーザーでいいから広い海をどこまでも走ってみたい。そんなことを夢見ながら、本当の願いはひとつだけだった。
 ――外に出たい。
 それが叶った今。
 次にしたかったことは――。
 霧華の返事を彼はどこか楽しげに待っているように思えた。表情には出ないからそう伝わってくるだけとはいえ。
「私、ずっとやりたかったことがあるんです。悠貴さん、お願いできますか?」
 もし許されるなら、自分でやってみたかったことがある。だけど、一度もしたことがないから、一人でするには不安。その不安を打ち消すように、悠貴は頷いてくれた。
「僕でできることでしたら――」

2010年05月17日

01:始まりの朝(6) >見果てぬ夢(仮)

 よし。
 気合を入れて、目の前の作業に取り掛かる。苦笑いが聞こえてきて隣に立つ悠貴に視線を向けると、金色の瞳が困惑した眼差しで見下ろしてきていた。不思議に思いながらその目を見つめ返す。
「そんなに力を入れてやることじゃないですよ。肩の力を抜いて」
「はっ、はい!」
「いえ、ですから――」
 ぐしゃ。
「あっ」
 手のひらで感じた潰れた感覚。
 開いてみれば、それはばらばらになっていた。指の隙間をヌルヌルとした液体が滴り落ちていく。これが、あの。
 生を見たのは初めてで、新鮮だった。いつも目の前に出されていたのは、きちんと調理されたもの。白身がこんなに透明なものだとは思わなかったし、なにより殻がこんなに容易く壊れるものだったなんて。
 手のひらで潰れた卵を見つめていると、一枚の白い紙が降ってきた。ティシュにしてはごわごわしている。
「キッチンペーパーで拭いて下さい。手を洗って、もう一度やってみましょう」
「はいっ」
 悠貴の言葉に返事をして、言われた通りキッチンペーパーに失敗した殻を包んで、手を洗った。もう一度、卵を手に取る。
「気合は入れないで、軽く数回叩いて、優しく割るんです。こんなふうに」
 そう言って、悠貴は容易く卵を割って見せた。
(やってるところを見てるだけなら、簡単そうなんだけどなぁ。)
 もう一度、見よう見真似でやってみる。
 軽く、優しく――。
 ぐしゃ。
 割ろうとした時点で、殻が潰れて黄身の中に入り込む。取り除こうにも、小さな欠片は完全に取れないから、もう一度。
「わっ、できた!」
 やっと殻がきれいに半分に割れた。ボールの中には白身と黄身が丸く入ってる。嬉しくなって振り向くと、悠貴が口元を緩めて頷いてくれた。それは微かに微笑んでいるとわかる程度の表情の動きだけれど、十分に喜んでくれていることが伝わってくる。
「よくできましたね。次はフライパンを温め、油を――」
 言われた通りの手順をぎこちない動きながら、どうにか進めていく。
 卵を焼いていると、どんっと背中に衝撃を受けた。
「キリちゃんっ!」
 ぎゅっと腰に回る小さな手。強い力で抱きつかれているせいで振り向くことができずに、首を少し捻って、下を見る。
「おはよう、陽菜」
「おはよー。キリちゃん。なにしてるの?」
 挨拶を返しながら、戸惑った表情で見上げてくる陽菜の瞳を幸せな気分で見つめ返しがら右手に持っている菜ばしを振る。
「ずっと、陽菜にご飯を作ってあげたかったの」
 ぱっと陽菜の顔が笑顔になる。
「ほんとうに?」
「うん。約束したでしょ。私がお弁当を作って、陽菜はお菓子を準備して一緒にピクニックに行こうって」
 霧華があの場所から出られたら。
 陽菜と約束したことを叶えていきたいと思ってた。それが唯一、霧華を生かしていた希望だった。
「おいおい……。俺たち男がいるってのに、女同士でいちゃつくなよなぁ」
 呆れたような声が割り込んできて、視線を向けるとあくびをかみ殺し、眠そうな顔の巴が頭をかきながらキッチンの入り口を塞ぐように立っていた。
 パジャマ代わりだったのか着ている白い半袖のTシャツは皺だらけ。黄土色の短パンも普通のひとならだらしなく見える服装なのに、なぜか野生的というか、これからサバイバルに向かいそうな雰囲気で、ぴったりと似合っていた。朝から、皺ひとつない高価な長袖の白シャツ―料理をするために、腕はまくっているけれど―と黒ズボンを乱すことなくキレイに着こなしている悠貴とは相変わらず対照的だ。
 ふと、巴が不思議そうに首を傾げる。
「そーいや、明は? 料理なら悠貴に習うよりあいつがいいんじゃねぇの?」
「明君なら、水城家本家に行ってもらってます。少し用事を頼んだので」
 即座に応じた悠貴の言葉に、ぴくりと巴の片眉が跳ね上がった。それから何かを推測したように口元が愉しげに歪む。
「ふーん、そういうことねぇ」
 意味深な眼差しを向けられて、霧華は戸惑う。
(え? なに?)
 悠貴の頼みで明が水城家本家に行ったことと、私と、どう結びつくのかまったくわからない。
 意味がわからなくて、陽菜を見る。
 彼女もわからないのか、不思議そうな顔をしていた。悠貴に聞こうと視線を向けると、彼はマイナス温度を身に纏い、巴をじっと見ていた。視線に気づくと、ハッと冷たい雰囲気を消し去る。
「なんでもないですよ。さぁ、続きを作りましょう。陽菜さんは顔を洗ってきて下さい」
「う、うん……」
「はぁい」
 戸惑いながら、彼の言うまま頷く。
 陽菜は慣れているかのように素直に返事をしてキッチンを出て行った。

「……凍りつくかと思った」
 一方的に無視された巴がぼそりという声が聞こえた。

2010年06月14日

01:始まりの朝(7)>見果てぬ夢(仮)

 ダイニングのテーブルに悠貴とどうにか作った朝食を並べる。出来がいいとは言えないまでも、焦げ付いたものもなく、初めてにしては上出来です、と悠貴に保証を貰った。

 なにより嬉しいのは。

「わぁ、キリちゃんっ。美味しいよ!」
 卵焼きを口いっぱいに放り込んで食べた陽菜が目を輝かせてくれる姿に温かい想いで胸が満たされていく。
 自分でも、卵焼きを箸で取る。あの部屋で出されていた卵焼きはキレイに焼かれていたけれど、霧華のは少し焦げ目がついていた。陽菜の言葉に勇気付けられて、思い切って食べてみる。
 はっきりいって味は、作られていたものと比べ物にならない。だけど、自分で作ったものを食べると、自然と頬が緩むのがわかった。嬉しくなる。
「ねっ、美味しいね!」
 隣で笑いかけてくる陽菜に頷き返す。
「まっ、初めてにしては上出来じゃん?」
 巴も一口でひとつ丸ごと頬張り、にやりと笑う。
「巴……」
「思い出すよなぁ、悠貴の初めての料理。あの黒焦げの料理に比べたら……」
 悠貴の咎めるような視線を受けながらも、巴が意味ありげな口調で言う。その言葉に陽菜が目を瞠る。
「えっ、ゆーくんって意外に不器用なの?!」
 うんうん、と頷く巴を見て霧華も驚いた。
「教え方はわかりやすいし、上手にできたのに?」
「そりゃあ、明の特訓の賜物だな。教えてもらえばわかると思うけど、あいつのが教え方は上手いぜ。料理もプロ級だ」
 得意げに話す巴の顔は弟を誇りに思う、兄の顔になっていた。その姿は微笑ましくて。霧華もきっと陽菜の話しを誰かにするときは同じような顔をしているんだろうな、と思った。大切で、とても愛しくて。
 ふと、悠貴に視線を移すと、彼は少し寂しげに目を伏せていた。ハッと霧華の視線に気づいて、すぐにその感情を押し隠してしまう。
 どうしてそんな顔をするの、と問いかけようとした言葉は、静かな光を湛える金色の瞳に見つめられ、呑み込んでしまった。全てを拒むかのような、表情のない顔。それは少し、零くんを思い出させる。

「――さて。世間話も結構ですが、なによりこれから先の話をしておきましょう。相手は白銀の双頭です。先に動いておかなければ、容易く身動きを封じられてしまいますからね」
 唐突に変わった話題の矛先に、巴も陽菜も不思議そうに首を傾けるものの、彼が言うことが確かに優先事項になるため、頷いた。霧華も悠貴の表情に引っ掛かるものを感じながら、それでも頷いて、視線をダイニングの扉に向ける。明の気配を感じたからで、すぐに玄関が開き、彼が姿を現した。白いTシャツに半袖のジャケットを羽織っていて、急いでいたのか髪が乱れている。それに構わず、明は悠貴に片手に持っていた茶色い封筒を差し出した。大きさはA4サイズ。
「遅くなりました。書類はこのなかに、全部揃っているそうです」
「あぁ、ありがとうございます。朝から大変な役目を押し付けてしまって申し訳なかったですね」
 悠貴が封筒を受け取りながら謝罪すると、明は慌てたように首を振った。
「とんでもない! 元はと言えばアニキが寝坊なのが悪いんですっ。本当はアニキが取りにいくはずだったのにっ!」
「うるせー。悠貴のために働きたいという明の願いをかなえるために、わざと寝坊したんだよ!」
「――そう言うわりに、巴はいつも寝坊してるじゃないですか」
 巴の言葉はあっさり悠貴に一蹴された。

2010年12月28日

01:始まりの朝(8)>見果てぬ夢(仮)

 ――学校?
 告げられた言葉が聞き慣れないもので、思わず繰り返していた。本で読んだことがあるから、それがどんなところかは知ってる。家庭教師でもあったイチくんから話を聞いたこともあった。もちろん、『霧ちゃんには関係ない場所だけどね』と釘は刺されたけど。
 同じ年齢の子達が沢山いて、そこで一緒にいろんなことを学べる。いつも独りだった霧香には憧れの処だった。
「行けるの?!」
 身を乗り出して問いかけると、悠貴は頷いて書類を差し向けてきた。その中にあったパンフレットの文字、水城学園の名前が目に入る。
 水城って――。
「そう、私が経営している学園です。この中でしたら、多少の融通は効きますし、白銀の手が回ってきても、逃れることができるでしょう」
「まぁ向こうも、素性調査の厳しいとして高名な学校に素性の知れない霧香がいるとは思わないだろ。更にデータは俺の管理下にあるからどうとでもできるしな」
 つまりは、フェイクをいくつも作ることができる。
 木を隠すには森の中。更にその森をいくつも作り出すことができれば、木が見つかる可能性は低くなる。
 ぱぁっと霧香の顔が明るくなる。陽菜も「よかったね、霧ちゃん」と嬉しそうに言ってくれた。うん、とうなずいて、学校という場所に想像を膨らませる。そのとき、冷静な女性の声が割り込んできた。

「――とはいっても、学校の中では目立つようなことはだめよ。あのふたりは耳聡いんだから」

 ハッと視線を向けると、ドアに寄りかかってひとりの女性が立っていた。ほっそりとした肢体にかかる、長いソバージュがかった黒髪。わずかにきつさが見える整った顔。二重瞼の下にある、薄茶色の瞳。口端をつりあげた唇はふっくらと赤く妖艶で全体を包み込む色香は同じ女性でも惑わされそう。
「陽子さんっ!」
 霧香は思わず立ち上がり、彼女に駆け寄った。
「元気そうでよかったわ、霧香」
 ぎゅっと抱き締められ、同時に安心したように息を吐き出す。久しぶりに包まれる甘い匂いに、霧香は懐かしさで胸が一杯になるのを感じた。
(もう二度と会えないかと思ってた……。)
 陽子は霧香が生まれ落ちた瞬間から、ずっと傍についてなにかとお世話をしてくれていた。霧香だけじゃなく、零や一紀の育ての親でもあり、あのふたりも陽子にだけは逆らえないところがあった。彼らが暴走を始めるまでは。
 霧香を閉じ込めることにおいては、陽子の非難にも耳を貸さなかった。必ず助けるから、その約束を最後に彼女に会うことさえ許されなくなって。
「最後に会ってから三年かしら。来年で十八歳? きれいになったわね」
 陽子は抱き締めていた腕を緩めて距離を取ると、霧香の全身をしみじみと眺めてくる。その視線に恥ずかしさを感じて、慌てて首を振る。
「かっ、変わらないと思うけど……」
「そんなことないわよ、ね。陽菜ちゃん」
「陽子さんこそ! 相変わらず綺麗で見惚れちゃいます!」
 話の矛先を陽菜に向けられて、彼女の賛同しようとする気配を感じ取り、霧香は遮るために先に口を開いた。陽菜にまで褒められたら居た堪れなくなる。
「なんだろな、このガールズトークは」
 はぁっとため息が聞こえてきて、視線を向ける。巴がテーブルに頬杖をついて呆れたような目で見ていた。そんな巴に、陽子はふふんっと鼻で哂って口端をあげる。
「うらやましいんでしょ」
「なにがだよ」
「女の子を堂々とこーやって抱き締めちゃえるとこ」
「えー、そうなの? とも兄ってやっぱり変態!」
「陽子さんっ、変なこというなよ! 陽菜っ、てめぇ。やっぱりってなんだ、やっぱりって!」
 べーっと舌を出して陽菜は捕まえようとする巴の手をするりと逃げ出し、明のもとに逃げる。明は陽菜を庇いながら、蔑むような冷たい目を兄に向けた。その視線に、うっと巴が動きを止める。
「……陽子さん、お願いですから大事な話の途中で引っ掻き回さないで下さい」
 冷静に割り込んできた悠貴に苦笑いを返して、陽子は空いている椅子に座り、霧香にも座るように促す。ただ座るだけの動きでも陽子のそれは優雅で目を奪われてしまう。
「とりあえず、白銀側の状況を話すわね」
 真剣な口調になって陽子が話し始める。
「霧香を逃がしたとわかった瞬間に、外国への移動手段を絶ったわ。飛行機、船、あらゆる機関に手が回ってる。霧香の網膜や指紋、骨格に重点を置いて該当する者にチェックが入るようになってるわ」
「いくら外見を変えたってダメってわけか」
 必ず個人と断定できるもの。
 まだ逃げ出してからそんな日数は過ぎていないのに、動きが早い。
「最初から外国に行くつもりはありませんでしたが……、巴のカムフラージュはどうなってました?」
 陽子は肩をすくめ、小さく首を振った。その動きだけでわかったのか、巴がうめき声をあげる。マジかよ、と吐き捨てるように言った。
「戻ってきた一紀がプログラムに網をかけて、カムフラージュしてるものをあっさり捉えて捨てたわ。それでも一日はかかったみたいだけど」
「あれを一日?! どんな頭してんだよ!」
 巴の機械を操る頭脳もトップクラスで、世界一、二を争うプログラマーだって半年はかかるだろうプログラムを組み、白銀のコンピューターに放り込んだ。それによって、霧香の情報が混乱し、カムフラージュとして作り上げた幾千もの偽情報が飛び交うはずだった。それが解決するまで、少なくとも一ヶ月は見積もっていたのに。
 悔しげに顔を歪める巴の様子に、霧香はぞくりと背筋に走る悪寒を感じた。
(――逃がさないよ、霧ちゃん。)
 まるで、そう言われているようで。
「ともかく、この国からは出られそうにないわね。唯一の救いは、それでも巴のおかげで、下手に動かなければ、ここが見つかる可能性は低いってとこ」
「陽子さん?」
 言われた言葉の意味がわからずに、問うように彼女を見ると、きょとんとした視線を向けられた。
「あら、霧香。聞いてないの?」
「ああ。そーいや、まだ言ってなかったなぁ」
 呑気そうな返事をしたのは巴で、悠貴も「そういえば」と思い出したように言う。疑問に思って全員を見回す。
「たいしたことじゃねーんだけど」
 がりがりと頭をかいて巴が答えてくれる。
「俺の特殊能力みたいなもんがあってさ。周囲にいる奴らの気配を消せるんだよ」
「えっ?!」
「で、それを研究して気配を消す機械を作ったんだ」
 巴の言葉に、陽菜が言っていた言葉を思い出す。気配は巴が消してくれていた、と。そうじゃなかったら、気配に聡い霧香が気づかないはずがない。気配をつかむことができるのは、もう本能のようなもので、たとえ気配を殺すことができたとしても、霧香相手では容易にできない。

2011年04月09日

01:始まりの朝(9)>見果てぬ夢(仮)

 巴の言葉を借りれば、それこそが霧香の特殊能力になる。
「このマンションはそれを取り付けてるから、完璧気配を消していられる。で、気配が消えるってのは、存在がぼやけるってことだ。たとえ陽菜や陽子さんに尾行がついていたとしても、霧香が一緒にいるってのはわからない。白銀の部下程度じゃあ、掴めないってことさ」
「ちょっと、巴。私は尾行をつけたままにするほど、間抜けじゃないわよ」
「こ、言葉のあやです。姐さんっ!」
「だれがアネさんよっ!」
 陽子に睨み付けられて焦って否定している巴を呆然と眺めながら、肩の力が抜けていくのを感じる。

「――そう。たとえ陽菜さんや陽子さんと一緒のところを見られても、遠目では誰かと一緒とは知られても特定の誰かとの認識はできません。彼らの頭の中には残らない。更に、映像として撮られても貴女の姿は映らない。ですから、しばらくは、いえ。正直に言いましょう。白銀の双頭が直々に動かない限りは、見つかる可能性が低いということです」
 巴の言葉を補うように、悠貴が説明を再開してくれた。

 どういった仕組みなのかは理解できないけれど、ともかく。
 ――見つからない。
 それだけが霧香の心を照らし出す。頬が緩んでいくのを感じる。

「よかったわ」 
 不意に安心するような声が聞こえて顔を向けると、巴とじゃれあっていた陽子が嬉しそうに微笑んで霧香を見つめていた。
「霧香の心からの笑顔ね。もう見ることができないって思ってたから」
 その言葉に、霧香の胸はぎゅっと痛み、泣きそうになる。溢れてくる切なさは、自分でももう二度と笑えないと覚悟していたから。嬉しいと思って、それで笑えて、更にそのことを喜んでくれる人がいる。なんの、含みもなく。
 ずっと――、緊張を強いられ、張り詰めていた気持ちがようやく許されて、ゆっくりと解かれていくように感じることができた。

2011年07月27日

ex.1:>見果てぬ夢(仮)

 陽の光が窓一面に差し込む部屋に閉じ込められてから、一年が過ぎようとしていて、霧香にはもうそれが長いのか短いのかわからなくなってきている。一年前まではまだ、救いがあった。外を走り回ることはできたし、大好きな陽菜と笑い合うこともできた。陽子さんと話すことも。護衛と言う名の監視役がいたといっても、彼らとも話すことができたし侍女として傍にいてくれた女性たちとも何気ない日常会話をしたりできた。

 それなのに――。
 窓辺に座って手のひらを押し当てる。やわらかな光は温かさを伝えてきて、このまま硝子窓を通り抜ければいいのにと思う。

 晴れ渡った空。記憶にある限り、この季節の風は心地よかったはず。優しく春の匂いを届けてくれる。息づく大地の熱、花の香り、生命が誕生する声も。そのなかで、草地に転がって陽菜と笑う。一緒にいるだけで、小さな幸せを沢山気づかせてくれる、唯一無二の存在。まだ、あの無邪気な笑い声を、笑顔を覚えていられることに、ほっと胸を撫で下ろす。同時に、こみ上げてくるどうしようもない想い。

「…………晴れてるのに、な」
 無意識に零れていた言葉だった。
 音になっていることにハッと我に返って口を手のひらで塞いだ。

 恐る恐る、窓越しに見えるソファの上で本を読んでいるイチ君に視線を向ける。ゆったりとソファの上で身体を伸ばし、上半身に本を置いてめくっている姿はとてもくつろいでいるように見える。
 家庭教師としての時間だけじゃなく、自分の時間が空いているらしいときにも彼はこの部屋に来て、暇潰しに本を読んでいる。零君も同じ。30分でも、一時間でも。一日のうちで、二人が重なり合うときはほとんどない。
 話し相手のつもりでいても、二人に言いたいのは『外に出して』とだけで、そんな気はさらさらない二人に、次第に話しかけることさえ億劫になっていた。黙っていても、あえて話しかけてこないし、話をしたければ気まぐれに声をかけてくる。霧香から話しかけないのは、意地もあって――。

 沈黙の中で、イチ君の本をめくる音だけが鳴っていて、零れ落ちた独り言は響いたはずなのに、イチ君はまるで聞こえなかったように何の反応も示さない。
 そのことに安堵して、同時に怒りがわきあがってくる。
(聞こえてなかったはずないのに!)
 外を焦がれる言葉は最初からなかったことにするつもりらしい。
 イチ君の見え透いた意図に気づいて、何かがこみ上げてくる。

 窓に押し当てていた手を支えにして勢いよく立ち上がり、ソファの上で本を読んでいるイチ君に向かう。目の前に立って、声をかけるより先に本を振り払った。英字の並ぶ分厚いそれが、ばさりと音を立てて絨毯の上に落ちる。

「どうしたの?」

 その行動を見透かしていたように、驚くでも怒るでもなく、イチ君は姿勢をほんの少し動かして背もたれに背中を預けて見上げてくる。その顔は癇癪を起こした子どもをあやすような、苦笑気味の表情で、膨れ上がっている怒りに油を注ぐ。

「かまってほしいならそう言ってくんないと。考え事してるみたいだったから、我慢して放っておいたのに」
「っ、違うでしょ! 放っておいてくれるなら最初から放っておいてよ! 一年も閉じ込めて、イチ君も零君も何考えてるの?!」
 戯言を耳にしているように、イチ君は肩を竦めて受け流してしまう。
「うんうん、意外に長いよね、一年って。もっとも、霧ちゃんは一生此処にいるんだから、時間を気にするだけムダになるよ」
 さらりと告げられた内容に、愕然となる。

(――っ、一生?!)
 顔から一気に血の気が引くのを感じた。
 鏡を見れば真っ青になっているに違いない。身体からも力が抜けそうになる。足元が覚束なくなって、崩れ落ちる前にイチ君に手をつかまれ、そのままソファに座らせられる。

「……どうして?」
「君が僕と零君以外の人間に気を移すことが嫌だから、かな」

 曖昧な口調で真実を隠そうとしていることに気づきながら、それでも縋るように言う。

「だったらっ、二人しか見ないって約束する! 他の誰かと話しもしないって、約束するから、外に出して!」

 必死の想いで言い募ると、イチ君は苦笑を零した。

「それは魅力的な約束だけど、霧ちゃんだけの問題でもないんだよね。僕たちは霧ちゃんを他の誰かに見せることも避けたいと思ってるんだよ。誰かが霧ちゃんに視線を向けたら、躊躇わず目を抉り出して殺してる」

 やわらかい雰囲気を纏いながら告げられた言葉は、鋭いナイフのように心を突き刺す。いつもからかうような光を浮かべている青い瞳が剣呑に煌めいているのを見つけて、喉が鳴る。静かに漂う彼の殺気は気配を察することができる霧香にはそれが本気だと悟らせてしまう。

 張りつめるような緊張感が支配する部屋の中で、イチ君はにっこりと微笑む。

「今日は後で零くんも顔を出せるって言ってたし、そのときは運動ルームで身体を動かせるよ。それまで、チェスゲームでもして遊んでようか」
 決められているスケジュールに霧香が拒否したところで二人が耳を貸すことはない。
(――それに、たぶん。)
 更に言い募ったときには、お仕置きが与えられる。
 結局は従うしかなくて。

(今は――今だけ、なんだから。)
 じっと視線を注いでくるイチ君から目を逸らして窓から入り込んでいる陽の光に目を細める。
 まだ、諦めない。
 表情に出ないように、心に強く言い聞かせた。
 

2011年12月11日

02:幸せの在処(1)>見果てぬ夢(仮)

 ――半年後。
 目まぐるしく変化した環境だったけれど、霧香にとってはひとつひとつが新鮮で、きらきらとした宝物のように輝き、わくわくと弾む気持ちで受け止めていた。
 学校も、そこで出来た友達という存在も。また、それ故に向けられる、自身へのけして良いものだけとはいえない感情も。
 ほんとうに狭い世界で日々を死んだように過ごしていた霧香にはなにもかもが、生きていることを、自分が感情のある人間だということを実感させてくれる糧のようなものになっていた。

 授業が終わり、マンションまでの帰り道を数人のクラスメイトと歩く。授業内容から今流行の歌や雑誌、話題がいろんなところに飛び火してめぐりながら、それを楽しく聞いていた霧香に急に矛先が向けられた。それも意外な――女子高生にすればあたりまえの――話題で。

「そういえば、霧香は好きな人とかいないの?」

 転校初日に好奇心一杯に話しかけてきた竹下(たけした)恵(めぐむ)が、そのときと同じ口調で言う。肩までの黒髪が首を傾げる動きに揺れた。

「――好きなひと?」
「霧香は可愛いもんねー。すでに彼氏がいちゃったりするんじゃない」

 ――彼氏。

 わいわいと想像を膨らませ、楽しく話しているクラスメイトをよそに、霧香は考え込む。
 好きな人は、陽菜に陽子さんをはじめ、助けてくれた悠貴さん、兄のように頼れる巴さん。なんでも丁寧にわかりやすく教えてくれる明くん。
 閉じこめられていたあの時期を思えば、大切にしたい人たちは増えている。
 だけどきっと、彼女たちが聞きたい彼氏という存在はそういうのとは違うような気がする。

 考え込んでいると、急に甲高いブレーキ音が聞こえ、目の前に赤いオープンカーが止まった。
 運転席に座るサングラスの女性が片手を挙げる。

「はぁい、霧香。お姉さんとデートしましょ」

「……陽子さん」

 目はサングラスに隠れているけれど、赤く艶やかな唇が弧を描いていて、笑っているのがわかる。黒いロングのワンピースは身体にぴたりと合い、赤いハイヒールとともに、更なる妖艶さを漂わせている。

「わっ、陽子サマ! お久しぶりです!」
「お会いしたかったです! こんにちはっ!」
 友達が一気に陽子さんに駆け寄る。
 時々、通学中に霧香の傍に姿を現す大人の美女は彼女たちの憧れの的になってしまったらしく、またフレンドリーな空気も相まって、とても慕われていた。

「わたしも会いたかったわよ、ガールズ! 一緒にお茶でもしたいんだけど、残念ながら今日は急いでるから、霧香だけお持ち帰りさせてもらうわね」

 にっこりと微笑む様子に空気までが和らぎ、霧香以外の全員がうっとりと見惚れる。
 自分の魅力を最大限に振りまいて、周囲を虜にする陽子はわかっていてしているから、腹黒い。
 霧香は促されるまま、彼女の車に乗り込み、助手席に座る。シートベルトを締めたと同時に、陽子はバァイと手を振り、車を発進させた。
 ミラー越しに見えた友達の目がはぁと型になっていたような気がして、霧香が苦笑する。

「で、今時の女子高生はなにを話してたのかしら?」
「好きな人について、かな」
「女の子の話題はいつだって、それよね。うんうん、そうこなくっちゃ!」
 顔を輝かせて、陽子さんがわくわくとした口調で言う。
「霧香はクラスにできたの、好きなひと」
 うーん、と正直に疑問を口にする。
「好きな人って、陽菜や陽子さんに感じてる『好き』じゃないの?」

 もちろん、違うわよ。

 即座に陽子さんが首を振る。
 そうしてため息をついた。
「そこらへん、霧香は未発達よね。環境があれだったから仕方ないけど――」

 どきりと胸が鳴る。
 背筋に冷や汗が流れる。押し込めて忘れることにした過去がよみがえりそうになって、ぎゅっと手のひらを握りしめた。

 まだ、半年。
 たった半年でも、縛られることのない自由を満喫している。憧れていた学校にも通えた。友達も出来た。なにより、陽菜や陽子さんとこうして楽しくお喋りできる。
 もう二度と、あの部屋に戻ることなんて。三人だけの、ある意味、独りぼっちの狭い世界に戻るなんて考えられない。

 不意に頬に鋭い痛みを感じて我に返る。

「っ、いた! よ、陽子さんっ!」

 ギュッと頬をつねられていた。

「こーら、なにを考えてんのよ」
 容赦ない力にギブギブと、頬を摘む手をたたく。
 ふふっ、と笑みをこぼして話を戻した。

「彼女たちが言う好きな人ってのはね。一緒にいてどきどきしたり、そのひとを想うと胸がぎゅっと切なく痛んだり、触れられると嬉しかったり恥ずかしかったり、ついついその人のことを考えちゃったり……って、なんだか言ってる私が照れるわ」

 陽子さんが自分の顔をパタパタと手で仰ぐ姿を横目で見ながら、言われたことを反芻する。

 ……まさか。
 まさか、そんなわけ。
 否定しながらも、陽子さんが言った言葉は当てはまる。
 そう気づいた途端、顔が一気に熱くなったような気がして、思わず両頬に手のひらをあてる。

「なっ、霧香! なによ、その顔。なにか思い当たることもでもあったわけ?!」
「よっ、陽子さん! 前っ、前見て!」
 驚いたように叫ぶ彼女に慌てて叫び返す。
 ハッとした顔で視線を前に戻されたことに胸を撫で下ろした。
 気まずい空気が漂い始める。

「……で、白状しなさい。思い当たったのはだれよ?」

 穏やかな口調には、剣呑なものが宿っていて、まるで真綿で首を絞められているみたいに息苦しいものを覚える。

 白状した途端に、その相手を殺しにいきそうなんですけど。

 サングラスを掛けていて目が見えないだけに、余計な恐ろしさを感じてしまう。
 沈黙で押し通そうと試みるものの、更に言い募られる。

「まさか、巴とか言わないわよね。有り得ない、そんなの絶対無いわよね?! いえ、あるはずないわ!」

 相変わらず、陽子さんは巴さんには厳しい。
 頷くわけでも、否定するわけでもなく、苦笑いを零す。

2012年07月31日

02:幸せの在処(2)>見果てぬ夢(仮)

 巴さんも素敵な男性だと思う。
 粗野なように見えて、学園生活に不便がないようにいろんなことを教えてくれた。友達ができるように、私の学園生活の話しから、アドバイスしてくれたりもして、今までずっと独りだった霧香の他の子達とは違う、ズレた視点が目立つことなく、打ち解けるようになったのは、巴さんのおかげだと思ってる。

「なーんて、ほんとはわかってるの」
 少しからかい混じりの陽子さんの口調にハッと顔を向ける。
 優しさの滲む横顔は、幼い頃から霧香の言葉にできないなにもかもを理解して、何も心配いらないとギュッと抱きしめてくれていたあの頃のまま。
 まるで会えなくなった時間なんてなかったように、陽子さんは変わらない。

「……悠貴」

「えっ?!」

「霧香が恋しているのは悠貴でしょ」
「――っ!」
 一気に頬が熱くなる。
 そっ、そんなはっきり言わなくても!
 焦りながらも、さっき――本当についさっき、自分でも自覚した想いに嘘をついたり否定したりできるはずもなく。

「だっ、だめ…?」
 巴が完全否定されたために、思わず恐る恐る問いかける。
 ふっと笑みを浮かべ、ちらりと視線を向けられた。

 どきりと胸が鳴る。

「悠貴はいい男だと思うわ」
 認めるような言い方にホッと胸を撫で下ろした。
 とん、と長い爪で私の頭を小突くと、でもね、と続ける。

「彼の立場にしても、彼自身にしても複雑なものを抱えているのよ」

 それはわかる。
 学園の理事やあのマンションにしても、乗っている車や彼の身だしなみ一つ、巴さんたちとの会話の内容の端々に聞こえる仕事の内容や操作する金額などから、彼がトップに立つだろう人間だと想像できた。

 零くんを見てきたからもあるけれど、彼自身が抱える威圧感ーー人間としての重みのようなものが、一般の人間とは明らかに違う。

「陽子さん、どうして悠貴さんは私を助けてくれたの? 上流階級の人間なら、白銀一族を敵に回
そうなんて思わないはずでしょ。いくら陽菜や陽子さんに頼まれたからって」

 白銀の双頭。その敬称はただの比喩なんかじゃない。
 世界規模の数多ある会社を纏めあげ、なお実績を高めている。若いながら見くびられることなくトップを治めているのは、白銀零の威厳や物事を見極める判断力、回転の速い会話や相手を唸らせ
る説得力などずば抜けたコミュニケーション力をも持っていて、双子の一紀は裏から支える頭脳派
で、一つの材料から彼はすべてを知り尽くすことができ、忘れることのない記憶力も持っている。

 相手へのリサーチを完璧にできることもあり、誰が相手であっても好かれる性質も兼ね合わせ、彼
の敵は世界の敵、とも言われてしまうとの噂もあるらしい。

 もし、あの二人に悠貴さんのことを気づかれたら……。

「――わたし、どうしよう。今更だけど、みんなに何かあったら……!」

「本当に今更よ、霧香。悠貴が決断した理由はわからないけど、みんなそんなこと覚悟してあなたを助けたの。立場的には悠貴は白銀一族に匹敵する財閥のおぼっちゃまだから、彼らも下手には手を出せないとは思うけどね。それに、――一応は陽菜もいるし」
「陽菜?」
 思いもかけない名前に、首を傾げる。
「あの子は一応、愛人の子とはいえ、先代から正式な姫の称号を得た白銀一族のひとりよ。それだけで、守れるものもあるわ」

2013年04月29日

02:幸せの在処(3)>見果てぬ夢(仮)


 姫の称号を抱く者は白銀一族の聖域にあたる。一族を名乗る者はけして、逆らうことができないし、あの子に手を出すことは白銀の名を汚すものとして、当主より厳罰を受けることになる。
 聖域を守ることは当主の役目でもあるから、対等とはいえ、双子も下手な手出しはできない。だからこそ、霧香にとっていちばん大切な存在だとわかっていながら、放置されている。
 今も、陽菜を人質にしようと思えばできるはずなのに、聖域を当主自ら汚すようなことは、白銀の名を貶めることになってしまうから、彼女を使うことはできない。
 本来は当主の妻に与えられる敬称。
 ――けれど、先代当主は愛人の子になる陽菜を守るために、まだ幼い、姫が如何なる存在かも知らない彼女にその敬称を与えた。

「わたしも――」
「霧香?」

 ずっと聞きたいことがあった。
 幼い頃から――陽菜の父が当主だと知ってから、聞きたかったこと。
 霧香自身の家族のこと。
 物心ついたときから、どうしてわたしは白銀一族のもとにいるのかーー。先代当主の時も多少の自由があったとはいえ、見張られていて、れい君たちが当主を継いでからもずっと疑問として持ち続けていた。
 先代当主は困ったように笑うだけで『知らない方がいい』と言って教えてくれなかった。陽子さんにも一度訊ねたことがある。
 そのとき、あまりにも。
 ――普段とても明るく陽気な陽子さんがあまりにも悲しげに、苦しげな表情を歪ませ、絶望をその顔に浮かべたから。
『その話しは二度と聞かないで』それまで聞いたことがないような、とても冷たい声で突き放されて。
 あのときは陽菜と陽子さんだけが心の支えだったから、冷たくされることが怖くて怖くて、二度と口にしないと誓った。
 そう誓ったときの気持ちを思い出して、ダッシュボードに視線を向けたまま、首を振る。
「……陽子さんは、このまま」
 疑問の代わりに思いついた言葉は、せっかくの幸せを壊してしまうきっかけになりそうで、うまく声にならない。

 ――このまま、みんなといられると思う?

 幼い子供のような問いかけ。
 霧香にとってはなにより重要なことだった。

 閉じこめられていた小さな自分が、もう独りにされるのはイヤだと訴えている。
 朝は誰かしらに見送られて外に出て、学校ではたくさんの友達や出来事があって、時々寄り道をして、こんなふうに陽子さんや陽菜と自由に話しができて、外から戻れば『お帰り』と言ってくれるひとがいる。

 それを幸せだと、クラスメイトに話すと『そんなこと普通でしょ』と言われるけれど、『ふつう』であることは難しいと、霧香は感じていた。