2007年11月01日

序章:怜悧な刃物(1)

 ――― 憎しみはほどけ、そして私は自由になる。

 彼女の言葉は、僕の胸にいつまでも残った。
 寂しさに溢れた声で。

 飛び立った鳥は、彼女だろうか。眩しさに僕は目を細めて、どこまでもその姿を追いかけた。

序章:怜悧な刃物(2)

 それが復讐だったのか、過去の残像から逃れる彼女のたったひとつの方法だったのか僕にはわからない。ただ、最後まで彼女は生きる中での幸せを見つけることができなかったということだけが事実だった。

 ――― 取り出されたナイフの刃は冷たく鋭い煌めきに歪んでいた。ツカを持つ手は赤に塗れて異様な臭いが空気を染めても震えてすらいなかった。しっかりと握りしめられてそこに彼女の決意がみえる。後悔していないという真っ直ぐな意思が周囲にいた者たちを押し黙らせていた。

  「……これはあなたが引き起こしたことなの。逃げるなんて許さないわ」

 ぞっとした。
 感情を一切削ぎ落とされた声は、寒気を走らせてすべてを終わらせた。

01. 依頼人(1)

 うだるような暑さ。
 事務所設立当時からある冷房は大きな音を鳴らしているわりには効力は乏しい。時折、ガタンと止まるのは愛嬌だというつもりか、コノヤロウ。朝9時から出勤して一時間足らずでもう数えるのもうんざりなのに再び止まった冷房を睨みつける。

 「……所長。新しいの買いましょう」
 「トキモリくん。熱中黙すれば火もまた涼しいだよ」
 「それを言うなら、て、なにしてるんです?」
 呆れた言葉に冷房を睨み付けていた視線を所長に向けると、緑色の物体と格闘している姿があった。
 「なにしてるように見える?」
 「遠藤豆のサヤヌキですかね」
 「まさにしかり!」
 たいして嬉しくもなさそうな顔で大声をだされて驚く。というか、自分で当てておきながらため息が零れた。
 「この暑いときになんでそんなことを。仕事して下さいよ」
 「……してるじゃないか」
 呟かれた返事に眉を顰める。
 どこをどんな角度から見ても所長がしているのは遠藤豆のサヤヌキだ。それ以外のなにもしているようには見えない。三十後半にしてはスレンダーな身なりをしているし、細めに整えられた眉。すっと通った鼻梁。サヤヌキに真剣になってるせいかヘの字に結ばれた薄い唇。同年代の男に比べると若々しく、精悍だとは思う。だがそれでもサヤヌキに真剣になるという年齢じゃないだろうに、見ているだけで暑さが増してくる。はあ。と再びため息を零して苛々と口を開いた。
  「いつから僕らは遠藤豆のサヤヌキを仕事にしたんですか!所長の仕事は探偵でしょう!川中子探偵事務所の名前が泣きますよ!」
 「やだなあ。トキモリ君。名前は泣かないよ」
 怒るな、僕。
 この探偵事務所に勤めてハヤ二年。所長のボケっぷりには慣れたはずだ。
 「もっとも泣くのは閑古鳥~ってね」
 あは。俺って冗談もうまい。うまい。
 暢気な口調に読んでいた赤字決算の書類をびりびりと破ってやりたくなった。はっと我に返って破る代わりに書類を机にたたきつける。びくりっと遠藤豆の入ったボールが震えたのが見えた。
 「暑いなか熱くなってもねえ。仕事ないものはしゃーないよ」

 だったら仕事して下さい!

 更に白熱して叫ぼうと口を開いた瞬間、扉をたたく音に気付いて、慌てて飛び出しかけていた言葉を飲み込んだ。代わりに「どうぞ!」と返事をして所長の傍から離れる。

 ドアに向かうと同時に開いて、ひとりの女性が姿を見せた。

水姫の祈り:序章(1)

 月が隠れる夜には不吉なことが起こるものよ、と幼い頃に母親から聞いた言葉が思い浮かんだ。見上げた先では暗闇を煌々と照らし出す満月があって、ほうっと息をつく。同時に夜風が吹いて、身体が震えた。ふわり、と上着が肩にかけられる。そのまま背中から優しく抱き締められた。

 「夜に過去を懐かしむと後悔ばかりが押し寄せるそうですよ」

 寂しげな含みが込められた声が落ちてきて、思わず頬が緩んでしまう。顔を上向けると、見るたびに溜息が零れる美貌が抱擁と同じ優しい微笑みを浮かべて見つめてきていた。月の光を受けて金色に煌く長い髪が風に流れていくのを眺めながら、首を振った。
 「安心して。後悔はしてないから。何度でも言うわ。後悔なんてしない。してない」
 まるで呪文のように繰り返すと、その薄い唇から苦笑が零れ落ちた。

 「貴女にはいつだって僕の心を見透かされてしまうのですね」
 「それだけ貴方を愛しちゃってるのね」
 同じような口調で悪戯っぽく言い返すと、抱き締めてくる腕の力が少しだけ強まった。伝わってくる温もりが心地よく、それを感じて胸が熱くなっていく。心に押し込めているすべてが溢れてきそうだった。同じ気持ちを感じているのか見つめている琥珀色の目も潤んでいることに気づいた。

 「僕も、愛しています。貴女だけを。ただ、貴女だけを愛しています」
 耳元で甘く囁かれる愛の言葉と、熱く触れてくる唇にただ、ただ愛しさを感じていた。

 その空で、月が雲に隠れていくことに気づかないまま ――― 。

序章(2)

 水鏡を前にして、映し出される少女の姿に淡い水色に染まる着物を身につけている女性は、悔しげに歯噛みする。苛ただしげに持っていた扇子で水鏡をぱしんっ、と叩き付けた。

 「おのれっ。鬼を狩る者めっ。所詮は人の子でありながらよくも!」

 暗闇に照らし出される琥珀の目は、怒りの炎で燃えていた。そこにあるのは、敵であることへの憎悪だけでなく、嫉妬。
 一度死に、また現れるとは。なんとも悔しいことか。我こそが首領の封印を解き、必ずこの手に取り戻すと誓ったのに。あの娘はまた邪魔をしようと姿を現した。

 「 ――― 許すまじっ!」
 今度こそ、その姿さえも。魂さえも、滅茶苦茶にしてやる。二度と生きて現れることがないように。傷つけ、滅ぼし ―― そうしてこそ、気持ちが救われる。
娘の身体が切り裂かれる姿を想像して、ようやく心が落ち着いていく。その為にも、けして逃れられぬように罠を張り巡らせねばならない。そう思案して、女性の美しい顔に愉悦の笑みが広がった。

一、鬼を狩る少女(1)

 身体を突き刺すときの鈍い音で我に返った。名前を呼ぶ声が聞こえて、同時に肩に走る痛みを感じながら、手に持っている剣の柄を強く握り締めた。手ごたえを確信させるかのように、自分よりも倍の身体を持つ鬼は、剣で心臓を貫かれてさらさらと砂に化していった。大きい手に平で掴まれて肩に食い込んでいた尖った長い爪も消えていく。そうして地面に落とされていく浮遊感を感じながら、叩きつけられる衝撃を覚悟した。

 「お前ねえ……。どうして俺を呼ばないんだよ」
 衝撃の代わりに呆れたような声が耳朶をうった。まるで風に包み込まれるように身体がふわりと浮いて、抱き止められる。閉じていた瞼を恐る恐る持ち上げると、蒼い髪が見えた。その色にほっと、胸を撫で下ろした。
 「凪……」
 「今更は遅すぎ。あーあ、ほら見ろ。肩に傷なんてつけちまってよ。お前は人間なんだぜ。鬼と違って傷がすぐ治るわけじゃない。今時、自分と引き換えにーなんてのは流行りじゃねえだろうが」
 ぽんぽんと投げられる嫌味に眉を顰めると、凪に抱きあげられていた身体はとんっ、と地面に下ろされた。抱き合うように向かされて、身を屈めてくる凪のその思惑に気づいたときには遅かった。肩口に凪が唇をつける。
 「ちょっ、凪っ……やめて!」
 慌てて離れようと身体を捩ろうとしたけれど、腰に巻きついたままの凪の腕の力は強くて、動けなかった。ざらりとした熱い舌が肩の傷を這うように舐めていく。
 「……っ、バカ凪っ!変態っ、すけべっ!」
 背筋を走り抜ける何かを誤魔化すために、思いつく雑言を投げつける。だけど、凪から返ってくるのは面白がる笑い声だけで、その行為をやめてはくれなかった。
 「まあ。こんなもんだな。ほら、治ったぜ」
 その言葉と同時にどんっ、と身体を押し返す。今度は素直に離れてくれた。
 肩に走っていた痛みはすっかり消え去っていて、赤く流れていた血も。その爪あともすっかり元に戻っていた。肩を回しても、痛みひとつない。それでも素直に感謝する気にはなれなくて、まだ面白そうに見下ろしてくる琥珀の目を不満げに睨みつける。

 「あのね!傷を治してくれたのは感謝するけど、その変態行為はなんとかならないのっ?!」
 「おまえが傷を作らなきゃ必要ないことだ」
 更に反論しようとすると、くるりと背を向けてそれまで鬼がいた場所に歩いていった。そうして道端に落ちていた透明な珠を手に取ると戻ってくる。ほらよ、と投げ渡されたそれを慌てて受け止めた。
 「大事な鬼珠だ」
 「ありがと」
 鬼の魂であるそれを握り締めると、ひんやりとした感触が伝わってきた。その冷たさにぐっと胸が詰まってしまう。後どれくらい集めればいいんだろう。
 この作業が果てしなく続くような気がして溜息が零れた。ぽんぽんと頭に置かれた手に顔をあげる。宥めるような目つきをしている凪に気づいて拗ねてしまった。
 「なんでもないっ」
 「はいはい。いーから、今夜はこれで帰るぜ。腹減った」
 「凪はなーんにもしてないでしょ!」
 何も、という言葉を強調すると、ニヤリと口の端をつり上げて皮肉気に笑う凪は肩を指差してきた。その意図に気づいて、舐められたことを思い出してしまい、歩き出した背中に文句を投げつける。
 「やっぱり変態っ!!」
 「へいへい。ほら帰るぞ」
 軽く受け流しながら、飄々と歩いていく姿を睨みつける。まったくもう、と呆れながらも、置いていかれないように走って追いかけた。

一、鬼を狩る少女(2)

 結局、自分のアパートに帰りついたのは明け方で、それから腹が減ったとうるさい凪にご飯を食べさせていたら睡眠時間を全く取れなかった。
 凪の馬鹿、と声に出して罵りそうになって、「藤野さん?」と後ろから呼ばれた声に慌てて飲み込んだ。返事をして振り向くと、ひとりの男の子が立っていた。学校で、同じ制服を着ている。さっと目を走らせると襟袖に『Ⅱ』の学年章がついていた。同級生だと思うけど、自分を除いてクラス三十九人の名前をすべては覚えきれない。しかもクラス替えをしたばかりでは、顔と一致しろというほうが無理だった。友達三人と、担任、あとは、……酷く憂鬱ではあるが保健医の先生の顔くらいしかわからない。というか、必然であるため覚えているけど、それ以外には興味がないというのが本音だった。

 「えーと……」
 一応思い出そうと努力はしてみるが、全く記憶にない場合どうしようもない。さらさらの黒い髪に、色白い肌。わりと顔は整っていると思う。眼鏡をかけている姿が優等生と印象付ける。困惑していると、彼はにっこりと笑顔を浮かべた。
 「僕は同じクラスの土岐壱(ときはじめ)。委員長してるんだけど、そんなに印象薄かった?」
 委員長、と聞き慣れない言葉を耳にして、その雰囲気がぴったり当て嵌まることに思わず納得していた。それが悪かったのか本音がぽろりと零れてしまっていた。

 「ごめんね。まだ全員を覚え切れなくて。悪気はないの。ただ、興味がないだけで」

 土岐、という男の子の目が丸く見開かれる。余程驚いたのか、眼鏡が少しずれてしまった。それを見て、慌てて口を押さえる。もしかしなくても、余計なことを言ってしまったかもしれない。もう一度謝るために口を開こうとして、目の前の相手は急にお腹を抱えて笑い出した。
 「はっはは ―― そ、そんな素直に言われたの、初めてだよっ。面白っ……」
 放課後の廊下の真ん中で大爆笑されて、ハッと我に返った。ホームルームが終わったばかりで、まだ生徒の姿が多い。そんな中で呆然としている自分と爆笑している相手では目立ってしかなかった。
 「ちょっと、こっち!」
 慌てて土岐くんを引っ張っていく。まだ笑いが止まらないのか、それでも抑えようと制服の袖で口を塞いで、奇妙にくぐもった声をあげながら、為すがままよろしくついてきた。

 「それで、何か用だったの?」
 がらりと開けた保健室に慣れたように入り込んで、ついてきた彼を振り向いた。問いかけを無視して、不思議そうな目で見つめてくる。
 「なんで保健室?」
 「先生にプリント作成の手伝いを頼まれてたから。それに、今日は会議があるって言ってたからまだ来ないと思うし」
 「へえー。本当だったんだ。藤野さんが先生の助手してるって」
 揶揄するような口調で保健室を見回している土岐くんを見つめる。悪いの、と挑発するように問いかけると、彼は肩を竦めた。
 「ただそう噂があったから。まあ。僕には関係ないけど。それこそ興味ないし」
 「だから、何か用だった?」
 最初の自分の言い回しを使われたことに少しムッとなったが、だったら何の用事だろう、と疑問に思った。用事がないのなら、できるだけ関わらないでほしいのに。そんな思いが口調に滲みでていたのか、苦笑を零された。
 「やっぱり忘れてる。当番でさ。担任の先生が今度のクラス会で使う道具を買いに行ってほしいって言ってたこと」
 呆れながら言われた言葉に、記憶が甦ってくる。そういえば、朝のHRのときにそんなことを言われた気がする。眠かったこともあって、適当に聞き流していて、放課後になったらすっかり忘れてしまっていたみたいだった。
 「ごめんね。すっかり忘れてた」
 素直にそう謝ると、一瞬目を細めた土岐くんはすぐに微笑んで頷いた。
 「いいよ。今日ずっと藤野さん、眠そうだったからね。そうじゃないかと思ってた。俺、ひとりで行ってくるから今日は早く帰って寝なよ」
 その優しさに警戒していた気持ちが解けていく。だけど、甘えるわけにはいかなくて首を振る。後々うるさいけれど、頼まれたことを人任せにするのは嫌だった。
 「そういうわけにはいかないでしょ。一緒に行くから」
 「でも保健の先生の頼まれごとは?」
 それは口実だからいいの、と口に出しそうになって慌てて飲み込んだ。怪訝そうにする土岐くんに笑顔で誤魔化しながら、どうしようか迷った。いくら用事があっても放課後に顔を出さないと後でしつこいくらいに付き纏ってくる。適当な言い訳は通用しない。今日は特に睡眠不足でもあるから、早く帰って眠りたいのに、一緒にいたくない相手に付き纏われるのは嫌だった。だからこそ、今日は早目に来たのに。そう思った瞬間、意識が気配を掴んだ。さっさと姿を見せてよ、とムカついてそう言おうとした言葉は明るい口調に遮られた。
 「じゃあ、明日の放課後に行こうよ。今週末までに買いに行けばいいんだしさ」
 ねっ、と同意を求めて提案された言葉に驚いているうちに、土岐くんはさっさと踵を返した。
 「俺、部活があるから。明日ね、今度は忘れないでよ!」
 そう言って止める間もなく、返事を聞かないままで、がらりと扉を開けて出て行った。その慌しさに暫く呆然と扉を見つめていたけれど、どちらにしても遅すぎる事実に溜息をついた。

一、鬼を狩る少女(3)

 「あらあら。デートの約束? あの男の子もやるわね」
 再び扉が引かれて入ってきたのは、この保健室の主だった。
 肩よりも長いまっすぐな黒髪はさらさらと揺れ、切れ長の黒い瞳は楽しそうな光を宿している。色白い肌に口紅を塗っているわけでもないのに赤い唇。一見、日本人形のような姿は、しかし裏腹にその性別は男性だった。赴任してきたとき、その事実を知ったほとんどの男子生徒が絶望に呻いた。それでも通りすがるだけで、教師を含めて見惚れてしまうほど美人で、本気で惚れこんでいる者もいるらしい、と友達が言っていたことを思い出す。これで同性愛者だったり、女装が趣味とかだったりするなら、まだ許せる。だけど、ただ人を振り回すことが好きなだけでこの姿をしているという人間に惚れるのは悪趣味としかいいようがない。勿論、そんな内面を欠片として見せることはないけれど。外面だけはいい。その証拠に、土岐くんだけには気配を悟られないように隠れていたのだから。呆れてその事実を突きつける。

 「聞いてたんでしょ」
 「あーら。当然デショ。大事な婚約者に変な虫がつこうとしてるのに見逃すわけないじゃない」
 「朔夜!」
 肩を竦めて言われた言葉に、ハッと息を呑む。思わず咎めるように呼んでいた。
 「どーしたの?」
 怒ってる理由が全くわからないとばかりに目を瞬かせる。不意に顔を覗き込むように上体を屈めてくるから、纏っている白衣から薬品の匂いに混ざって煙草の香りが鼻についた。思わず眉を顰める。一歩後ずさって、制服のスカートのポケットを探った。入れておいた巾着袋を取り出して、朔夜に押し付けた。
 「鬼珠?」
 頷くと、朔夜はそう、と興味なさげに白衣のポケットに無造作に入れる。そのまま歩き出して、保健室に置かれた専用の机に向かう。黒塗りの椅子に座って、くるりと回転させると、手招きをした。それに従って近寄り、目の前に立つと右手を取られた。見上げてくる目が、心の奥まで入り込んでくるようで、思わず視線を逸らす。くすりと笑う声が聞こえた。

 「今日は時間あるわよね?」

 逸らしていた目を向ける。それを聞いたとき後悔が押し寄せてきた。鬼珠を渡すのを早まった。渡さなければ数日は鬼狩りを理由に誤魔化せたのに。そう思ったことが顔にでていたのか、朔夜の瞳に鋭い光が宿った。ぴんと空気が張り詰める。
 「紫(ゆかり)」
 「……食事だけなら付き合うからっ」
 強い口調で名前を呼びかけられて、懇願するように言う。もっと何かを言われると危惧していたけれど、意外にも朔夜は柔らかい笑顔を見せて、頷いた。
 「そうだね」
 貰えた返事にほっと息をつく。だけど、まるでそれを狙ったかのようなタイミングで続く言葉を言われた。
 「明日の朝ご飯までたっぷり付き合ってもらうよ」
 突き付けられた言葉に胸が詰まる。絶望が徐々に支配しようとする心の中で、必死に抵抗しながら、首を振る。弱いところを見せるのは嫌だったけれど、泣きそうになる口調を変えることはできなかった。

 「今日はやだ…」

 「仕事が終わるまでそこのベットで眠ってなさい」
 拒否しても、握られていた手を引っ張られて、朔夜の腕の中に捕らわれる。
 「……やだ」
 繰り返し首を振っても、聞き入れてもらえずに、髪を撫でられる。それが合図でもあるように、意識が奥深くに入り込んでいく。睡眠不足のこともあって、その術に抵抗することなく、朔夜の腕の中で眠りにつくしかなかった。

 備え付けのベットに紫を寝かせて、音を立てないようにカーテンを引く。椅子まで戻って座ると、ポケットに入れていたものがじゃらり、と音をたてた。巾着を取り出して、鬼珠を手の平に取り出す。水色赤色黄土色、様々な大きさの色がある。その中に蒼色がないことに気付かないと思っているのか。

 「どっちにしても全部集めないと封印は解けない。解かない」
 言い直して、鬼珠に意識を集中させる。それは淡く白い塊になって朔夜の口の中に入りこんだ。
 すぅと吸い込んだあと、力が溜まっていくのを感じて、息をつく。これでまた近づいた。だけど、まだまだ足りない。そう思ったとき、ふと声が聞こえた気がして、視線をカーテンに向けた。暫くじっと意識を集中させても、それが再び聞こえることはなくて、張り詰めていた緊張を解く。それでも、夢の中まで探ることはできない。深い眠りは夢を見ることがないとはいうけれど、確実ではない。だったら、もっと縛り付けておかないと、安心できない。

 「今も昔も、――これからも。あの子は俺のものだ」
 二度と。邪魔もさせないし。誰にも渡すつもりはない。逃がすつもりもない。そのためなら、なんだってする。そう、なんだって ――― 。それはそう。とても自然なことなんだと、それを刻み付けるためにも早々に仕事を終わらせなければ。キャスターを回して机に向き合うことにした。

2007年11月05日

00 理不尽なお茶会(01):(11/フェアリー~)

 雲ひとつない澄み渡った、青い空。優しい光を降り注ぐ太陽。暖かな空気。見渡す限りの草地。流れる穏やかな時間はいつもと変わらず、平和なものだった。その穏やかな時間に包まれながら、お気に入りのティーセット。手作りの生クリームたっぷりのケーキと逆に甘さ控えめのクッキーを並べているテーブルを見て、溜息をついた。
 「……あの、気に入りませんか?」
 一歩後ろに控えて、ティーポットを手にしているタキシード姿の青年が恐々とした口調で問いかけてくる。一見、普通の好青年に見える。さらさらと風に揺れる金髪。潤んだように見える赤い瞳。薄い唇。男のクセに肌が白い。美青年だと噂されているだけあって、顔は整っている。その頭にふたつ。白く長い耳さえなければ。しゅんと、まるで青年の気持ちを現すように項垂れている耳を睨みつけるように見て、再び手にしていたカップに口をつけた。
 「紅茶は美味しいわ」
 そっけなく答えたにも関わらず、青年の耳は元気に立ち上がった。

 「本当ですかっ?!」

 「……ええ。紅茶は美味しいわ」
 「よ、よかったですー。これで次回の第7000回「妖精執事大会」に安心して出場できますー」

 フルフルと身体を小刻みに震わせて感動したようにガッツポーズをとる青年の耳は、大きいわりに役立たずらしい。紅茶「は」とわざとらしく言った声が聞こえなかったのか。聞こえないフリをしているのか。明らかに後者だと確信しながら、ミレはカップをそつない仕草で皿の上に戻して、スカートに広げていたナプキンを使って口元を拭いた。そうして、さりげなさを装って、ケーキが乗っかっている皿を掴んだ。自分の小さな手に気づいて、仕方なく両手で。
 「ミレ様?」
 ようやく感動から戻ってきた青年は、ミレの行動に気づいたのか首を傾けた。しかし、それに答えるより先、掴んでいた皿を持ち上げて、全力で振りかざした。びょんっ、と物凄い勢いで上に乗っていたケーキは青年の顔に見事にヒットする。べちゃ。
 「……なっ、」
 唐突に顔面が真っ白になって驚く青年は絶句した。かまわず、叫んでやる。
 「ばっかじゃないっ! 何で紅茶に身体を小さくする液体が入ってるのよっ!」
 「い、いえ……。それはラヴオールドウォーターですよ。紅茶の一味に欠かせないと、ティア様が」
 ――― ティア様。
 悪戯好きの月の妖精王女。むかっ。美しいと評判の彼女は青年をからかうことを最近のお気に入りにしているらしく、すぐにチョッカイをかけてくる。べーっと舌を出している彼女の姿が思い浮かんで、むかむかっと腹が立ってきた。
 「そんな味付け、本気にするなーっ!」
 テーブルごとひっくり返したい気分になったが、今の小さな小さな自分では揺らすことさえ出来ずに、その鬱憤を叫んで青年にぶつけることしかできなかった。

王よ、後戻りするなかれ。(01short-)

 陛下、といっそ返事を催促されることが今の胸の内をどれだけ軽くするものか目の前で無表情のまま立っている宰相は理解していて黙っていることを察することができるだけに、遠慮なく睨みつけた。たっぷりと皮肉を込めて問いかける。

 「そなたは、木偶の棒か?」

 「それが陛下の私に対する評価だというのなら、いっそ、下克上でもしてさしあげましょうか。陛下がサボる九割の仕事を片付けているこの、私へのそれが正当な評価だというのなら」

 ひとつ皮肉を言ったら倍返し以上に辛らつな嫌味が返ってくるのは、すでにこの関係が成立してから繰り返しているというのに、頭ではわかっていても、心が納得できないでいるせいだ。無表情なのが尚更、むかつく。これがまだ、嫌味を言うだけの顔をしていれば、ふふん、ザマーミロと鼻で笑ってやれるのに。
 悔し紛れに再び、手に持っていた承認待ちの書類に視線を落とす。内容はすでに頭に入っている。それでも何度も何度も繰り返し読んでは、びりびりに破ってやりたかった。それで国民の平和が保たれるのなら、紙切れ一枚いくらでも無かったことにしている。他の仕事をサボりながらも、何度も頭の中でシュミレーションを繰り返した。考えて考えて、頭が爆発したときは、夢だったのかと溜息をついたほどだ。期限まであと数分というこのギリギリになってまで、打開策は見つからずに、だが諦めきれずにサインを書くこともできないでいる。

 「ついでですから、陛下への正当な評価を私がしてみせましょうか?」

 じっと書類を見ていたら、それまでこちらから話しかけない限りは黙ったまま突っ立っているだけだった宰相が唐突に問いかけてきた。必要ない。そうきっぱり吐き捨てようとしたが、自分への評価、という言葉への好奇心に勝てず、視線を向けた。相変わらずの無表情だったが、まっすぐ向けられていた目に驚きながら、「聞いてやろう」と椅子の背に深くもたれる。ギィ、と微かにあげた椅子の悲鳴を合図に、宰相は口を開いた。

 「私は仕える主が陛下でよかったと思っています」

 日頃から、サボり魔だの。国政に関わるには勉強が足りんだの。関わるならそれらしい姿を見せろだの。言いたい放題の宰相の言葉に、何の冗談だ、と聞こうとして、その驚きが顔にも出ていたのか、遮られた。

 「陛下にしかできない、一割の仕事は必ず終わらせるでしょう。それも国民たちにとって、よりよい方向で。後の九割は誰にでもできる仕事です。その報告を読むことも勿論、一割に含まれていますけどね」

 見透かされていたのか、と当然知っているという口調で言う宰相の、それでも無表情な顔に、恥ずかしさと悔しさが募ってきて、むっつりと押し黙るしかなかった。それさえも見透かすように、宰相が苦く笑う声が聞こえてきて、睨むように見ると、急に真剣な目で見つめ返された。

 「いいですよ。陛下がこれから暴君と罵られようと、国民に恨まれようと、私は知っていますから。あなたがこの決断をするのにどれだけ悩んだか。どれだけの傷を受け入れようとするのか。私だけは、―― 傍で見てきた私だけは真実を知っているし、忘れたりはしません」
 いつも辛辣な言葉だけは言いたい放題の宰相の言葉に、思わずまじまじと見つめてしまった。驚きよりも、心の中にわきあがってきたのは、諦めなのかもしれない。先に立つ者は常に孤独だ。どんなに優秀で頼りになる臣下がいようと。私事では親友や恋人がいようと。

 たった一言で。たったひとつのサインで、ひとひとりの未来が変わってしまう。それによって幸福を与えたり憎悪を募らせてしまうことになる。それを知らないと、割り切ってしまうことなどできない。重責だ。それ故の孤独だ。常にいいほうに、など心がけていても、不安がある。これでよかったのか、正しい方向へ進んでいるのか。差し伸べてくる手を振り払っていないか。不安で、眠れない夜だってある。

 それでも、決断しなければならないのだ。それが自分に課せられた立場であり、責任であり、宿命なのだから。逃げることこそが、最も恐れていることだ。 けれど、それでも不安がその想いに勝ってしまうときだってある。だが、宰相は今の一言で不安を拭い去ってしまった。

 ――― わかっていてくれる人がいる。

 散々試行錯誤を巡らせたことを。国民にとって最もよい方向を選択しようとしたことを。見ていてくれて、忘れないと言ってくれる者がいる。それならば、もしも運命が最悪な方向へこの決断を運び去り、国民のだれにも恨まれてしまおうとも。最も最悪な決断をした国王だと罵られ、刻まれようとも。

 そう心に決めて、今までの悩みを吐き出すように、大きく溜息をついた。

 「…………決めよう」
 ペンを持って署名欄にさらさらと、それまでの重さが嘘だったかのように軽い動きで書き終わり、さあ有り難く受け取れ、と書類を渡した。相変わらずの無表情で受け取った宰相は、確認するために署名欄に視線を落とす。それを少し可笑しな気分で、見守った。
 「……私は、だから仕える主があなたでよかったと言うことができるんです」
 それまでの無表情がなかったように、にやりと企んだ笑みを零す宰相にため息を返す。
 「これから忙しくなるぞ」
 「そうですね。陛下の仕事が九割に増えるだけです」
 「書類返せ」
 思わず手を差し出すと、無表情に戻った宰相は何を今更とばかりに懐にしまいこんだ。わざとらしくも恭しく一礼する。
 「戦争をかわしきった国王の直筆として、我が家宝にさせていただきます」
 「……せめて三割にしないか?」
 「ご心配には及びません。サボろうとしたら、この家宝を相手国に見せますから。戦争の火蓋を報せる書類にくそったれ、と書かれたこの書類を」
 淀みなく言い切って、懐にしまいこんだ書類をわざわざ取り出してひらひらと振ってみせた。誰だ。こいつを宰相にしたのは。ああ。自分だ。どうして忘れていたのか。いつしか読んだ本に、頭がいいヤツは統計学的にも性格が悪いと書いてたじゃないか。大陸随一の頭脳明晰な男の唯一の欠点は無表情と思っていたが、違う。欠点は、その性格の悪さに違いない。間違いない。

 「……よん、五割で手を打とう」
 四割と口にしようとした瞬間に、宰相の眉が不機嫌に上がったのを見て、しかたなし。五分五分で手を打とうと思った。

 「その覚悟に免じて、七割で手を打ちましょう」
 どうせそこまで引き上げるつもりだったんじゃないか、と罵ろうにも、ええそうですよと無表情で飄々と言い切るに違いなかったのは経験上わかっていたので、もうため息を返すしかなかった。

 「後戻りなど、できはしないぞ」
 「するつもりもありません。私と陛下ですよ。大陸制覇だって狙えるのに、このように小さな国で大満足しているのが不思議なくらいです。他所のちょっかいなどせせら笑ってやりましょう」
 それでは、三割の仕事がありますので失礼します、と礼儀正しく踵を返して出て行った。パタン、と閉まった扉を見つめながら、深く椅子にもたれる。再びギィ、と音が鳴った。

 「仕方ない。国王であるうちに私はあとどれくらいそう言葉にするのかな」
 それでも、ただ、国民が日々の暮らしをまっすぐにのびやかに過ごしていってくれるよう、できるだけのことをするだけなのだ。あの口の悪い宰相とともに。
 「まったくもって、仕方ない」
 そうは言っても、あともどりなど、できるわけもなく ――― 。

01. 依頼人(2):(トキモリ~)

 一言で表すなら清楚。胸辺りまで流れ落ちる艶やかな黒髪。対象的に肌は白い。柔らかな印象を受ける黒いつぶらな瞳。長い睫毛。小さめの鼻にふっくらっした朱い唇。手足も焦げ茶色の半袖ワンピースからほっそりと伸びている。風に吹かれたら倒れそうな儚い印象を受けた。
  「……あ、あの?」
 怪訝そうに問いかけられて、扉の前で突っ立っていた僕は我に返った。
 「あっ、すみません。どうぞ中へ」
 「はい。有難うございます」
 まじまじと見つめてしまったにも関わらず、女性はにっこりと穏やかに微笑んでくれた。どきりと、その優しい笑顔に胸が高鳴ってしまう。それを誤魔化すように室内へと促した。

 「所長、お客さんですよ」

 彼女を連れ添って、いまだえんどう豆のサヤヌキに格闘しているだろう所長のもとに向かう。しかし、机の上にあったはずのボールはすでに片付けられていて、わざとらしく真ん中には大量の書類が置かれてあった。ごほんと小さく咳払いをして、所長は立ち上がる。
 「ようこそ、川中子探偵事務所へ。どのようなご依頼でしょう?」
 さっきまでの怠惰な様子は微塵もなく、驚くほど隙のない雰囲気でそう言った。
 ( ――― いつものことながら。)
 仕事にはあくまで真摯に向かうこの二重人格探偵を、僕はやっぱりそれなりに尊敬している。
 トキモリ君、お茶。よろしくね、と視線で訴えかけてくる所長にむかつきながらも。

2007年11月07日

00 理不尽なお茶会(02):(11/フェアリー~)

 「よりにもよって……、ラヴオールドウォーターだって?」
 腹を抱えて笑って言うギルを呆れた目で見やって、すぐに隣で「の」の字を書いている執事に視線を向けた。長く白い耳は悲しげに項垂れている。話しかけないで下さい、と背中に書いてある雰囲気を感じ取って溜息をついた。仕方がないので、再び自分で淹れた紅茶の入ったカップに口をつける。湯気とともに匂う香りと、あっさりとした味はムカつく気持ちを宥めてくれるような気がした。

 「けど、ふうん」
 それまで笑っていたギルはやがて興味深そうに見つめてきた。薄い銀髪の髪がさらりと風に揺れて、琥珀の瞳に好奇心に満ちた光が浮かんでいる。整った容貌は、執事にも劣らない。つと、視線を落とすと彼のふさふさの尻尾が楽しげに動いていた。
 「おまえの恋年齢って随分と幼いんだなーと思って」
 「悪かったわね。恋するほどの男が此処にはいないから」
 ふんっ、と鼻で笑って、ギルの視線から逃れるように、瞼を伏せた。何かもの言いたげな視線は変わらずに注がれて、誤魔化すようにテーブルの上にあるクッキーに手を伸ばした。伸ばそうとした。その瞬間、それまで蹲っていた執事が勢いをつけて立ち上がる。

 「恥ずかしがることはありません!」

 その声の大きさにびっくりして、手を止めて視線を向ける。

 「先日僕が飲んだときは乳飲み子になって ――― ぐふ!」
 「全然フォローになってないわっ!!」
 叫ぶと同時に、はっと気づいたときには遅かった。自分の右手に持っていたはずのカップがない。なんてこったい。そう思って恐る恐るその行方を捜すと、執事の額に見事ヒットしていた。ちゃりん、とカップはひび割れて、地面に落ちる。ついでに執事もがくん、と地面に倒れ伏してしまった。
 「……茶の代わり、いるか?」
 空いていた他のカップを差し出され、それを受け取ろうとしてやめた。いいわ、と断ってから、頬杖をつこうとして、イマ自分の姿が幼女だったと思い出し、背もたれに深くもたれるだけにした。
 差し出したカップを意味ありげに見つめ、仕方なし、ギルはそれを自分で飲み干す。苦笑して、呟いた。
 「報われないな、お互い」
 それは聞こえなかったフリをして、ふと思い出したことを口にする。
 「そういえば、明後日からエント・ファームの妖精たちがお祭りをするんだったわ。呼ばれてるのよね」
 「あそこ、まだ住んでるのか? 人間たちが踏み込んできただろう?」
 ギルが怪訝そうな顔つきで言う。反対側の椅子に座って、足を組む。ふさふさの尻尾は、椅子から少し横にはみ出ていた。
 「招待状が来てたもの。様子を見に行ってみるわ。お母様たちはどうせ、手が回らないでしょうし」
 肩を竦める。ギルは考え込むように顎に手を添えていたが、やがてちらりと視線を落としてきた。
 「……その姿でか?」
 現実を突きつけられて、言わないでよ、と不満そうに雰囲気を露わにしてから、いまだ地面に倒れ伏したまま、現実逃避をしている執事を睨みつけた。

2007年11月14日

01:伯爵と小さな女の子(01):(11/フェアリー~)

 ――― 冗談じゃない。
 ガタゴトと走る馬車に揺られながら、彼は怒りに沸き立つ感情に捕らわれていた。さっきまで顔を合わせていた父親が原因だった。あの男はこれ見よがしに自分を執務室に呼び出して、淡々と。あくまで口調だけは淡々と、しかし、その表情が面白がっていたのは一目瞭然で、告げた。
 「我が侯爵家の一部の領地をおまえに任せる」
 その言葉に思わず目を見開いてしまった。目の前の腹黒い男の前で油断など禁物と熟知していたにも関わらず、予想外の言葉に油断してしまった。驚愕の中に恐らく、喜悦の光を見つけてしまったのだろう。男はにやりと意地が悪そうに口の端をつりあげた。ついでに、わざとらしく伸びっぱなしの顎鬚を撫でつけながら。
 「ハイゼット・エントの地だ」
 その名前に、もしもステッキやら、棒でもいい。鞭だって、持っていたら、遠慮なく振り上げていただろう。代わりにぐっと手に平を握り締める。弱みを見せたくなくて、逆ににっこりと笑ってやった。
 「あの。広大な森と丘だけが存在する場所ですか?」
 「治めがいがありそうだろう」
 ふざけるな、と吐き捨てたい気持ちを頭の中でこの男を踏み潰し土の中に埋める想像をすることで、なんとか押さえつける。
 「出発はいますぐだ」
 そう突きつけられた言葉に、今の自分はあいにくと拒否する言葉を言えないまま、従うしかなかった。

 ――― 冗談じゃないっ。
 あんな森と丘しかない場所で、何をしろっていうんだ。苛立ちは最高潮に達して、なお、どうすることもできない自分に歯がゆさが増すばかり。くそったれ、と罵ってやろうとしたところで、急に馬車が大きく揺れて止まった。
 「申し訳ありませんっ!」
 御者の声が外から聞こえる。どうしたんだ、と窓を開けると、焦った顔が向けられた。
 「女の子が倒れていて……」
 「なんだって?!」
 急いで扉を開けて出て行く。御者に抱き上げられているのは、10歳になるかどうかの女の子だった。一見綺麗なドレスを着ているように見えるが、あちこちが泥で汚れている。しっかりしろっ、と呼びかける御者に返事はなく、意識は失っているようだった。
 「この辺りに医者は ―― 」
 言いかけて、周囲を見回し、いるはずがないと絶望する。周囲には、薄暗い森が続いているだけだ。ともかく、御者から少女を取り上げて抱き上げる。ふわりと軽い身体に驚きながら、命じる。
 「ともかく城に連れて行こう。あそこなら、城付きの医師もいる。誰か先に行って、城の者たちに連絡しておいてくれ」
 わかりました、と馬に乗った従者が先に行く。
 少女を馬車に乗せると、さっきよりも早いスピードで動き出した。膝の上で横に抱いている少女を見る。さらりと流れる薄茶の髪、ふっくらとした幼い顔つきながらも、容貌は整っている。とても可愛らしい娘だった。村娘には思えない。しいていうなら、貴族の娘で、大切に育てられている子どものように見える。
 (こんな辺鄙な場所でなにがあったんだ……?)
 怪訝に思いながらも、遠く狼の遠吠えが聞こえてきて、眉を顰める。嫌な予感に、さっきまで感じていた苛立ちはすっかりなくなっていた。

2007年11月16日

01:伯爵と小さな女の子(02):(11/フェアリー~)

 エント・ファームの地は広大な森と丘しかない場所だったが、それこそ妖精の好む土地柄で、昔ここには様々な妖精たちが棲んでいた。妖精たちが物の売り買いをする妖精市場などという滅多にないものまであるのもここ特有の名物だった。しかし、それもこの地に人間が城を作り出すまでは、の話。森を切り開いて、道を作り馬車が行き交うようになった。丘には、城が作られ人間たちが訪れるようになると、妖精たちは危険を感じて市場を閉鎖し、ある者は森の更に奥地へ。嫌気が指したものは妖精界へと姿を消した。人間に興味を持った者、或いは悪さを働こうと企む者達だけがこの地に残った。その数も種類も、人間たちの妖精を信じないという、傲慢で横暴な遣り方に数は減少していくばかり。
 それでも、昔ながらのこの場所を古の土地と愛する妖精たちはいる。その妖精たちを慰めるためにも、ミレは招待されたお祭りに参加しようと心に決めた。
 ――― それなのに。
 「ミレ、俺から離れるなよ。嫌な予感がする」
 一緒に歩いてきたギルが隣で警戒心を露わに言う。狼姿に変化した彼は、銀色の艶やかな毛並みを逆立てていた。琥珀の瞳が鋭く周囲を見回す。
 「大丈夫ですよ!ここは一応まだ妖精の地ですよ。ミレ様を傷つけるような不届き者がいるはずありませんっ」
 そう呑気に喋るのは、ギルとは反対側に立つ執事だった。ひょこひょこと耳がせわしなく動いている。その緊張感の欠片もない口調に、ギルと顔を見合わせた。相変わらず、鈍感。ミレは溜息を飲み込んで、ギルはこれ見よがしに大きく息をついた。